T’s Line blog-映画についての備忘録-

兼業主婦が仕事と子育ての合間に見た映画などについて、さらにその合間に綴るブログです。ブログタイトルのTは好きな俳優さんのお名前のイニシャルがことごとく「T」なため。LineはTのうちのお一人の主演作、新東宝「地帯シリーズ」から拝借しています。。

大庭秀雄監督「稲妻」

誰かのどこかに、自分をみる。

  

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【映画についての備忘録その58】大庭秀雄監督×倍賞千恵子主演「稲妻」(1967年)

 

東京の下町の雑貨屋の三女清子(倍賞千恵子)は大企業で電話の交換手として働いているが、恋人の川口にある日別れを告げられる。その原因は、清子の家族―長女の逢子(稲垣美穂子)、次女の光子(浜木綿子)、兄の嘉助(柳沢真一)とそれぞれ、父が違っているという、複雑な家庭環境のせいだった。

逢子は両国でパン屋を営む綱吉(藤田まこと)との縁談を清子に持ちかける。綱吉は逢子の夫・竜吉(穂積隆信)と温泉ホテルを始めようとしているという、腕のある商売人である。そんな折、光子の夫・呂平(田口計)が交通事故で急死する。葬式の夜に弔問に訪れた綱吉の羽振りのよさに、逢子や竜吉だけでなく、母のせい(望月優子)も、悲しみにくれる光子をそっちのけで綱吉を迎えるのを見て、清子は綱吉にも家族にも嫌な気分になる。

そして、呂平の保険金が下り、呂平の抱えた借金の返済を終えた光子は神田で小さな喫茶店を開くことを考えていた。光子はその世話を綱吉に見てもらううちに男女の仲となる。それ以前には姉の逢子と関係を持っていた綱吉。ある日、開店前の光子の喫茶店を訪れた清子。そこで、綱吉と光子、逢子が鉢合わせとなり、大喧嘩になるのだった―

 

 

シネマヴェーラ渋谷の「欲望のディスクール」特集で鑑賞しました。ちょうど会社の送別会があって、時短勤務者、時間通り切り上げて、送別会までの時間を映画を観て過ごすことにしました(なかなか贅沢な気分)。大庭秀雄監督作品、初鑑賞(「君の名は」をまだ観ていないのです!)。映画は清子とせいの親子関係、三人姉妹の関係を中心とした女性の物語。三人姉妹と母親は各々性格が違っていて、観る人が4人のどこかの部分に自分に近いものをみるのではないかな、と思うような映画でした。男性陣は物語を動かす役目をおっている綱吉ですら、添え物的な感じです。

 

逢子は元は水商売をやっていたようで、自分の女としての武器をいかして、いい男(=金を持っている男)を利用しよう、というような女性。夫の稼ぎがなくなると見ると、あっさり見限って綱吉に乗り換える。上の学校へは行かず、働いて清子の学費を出してやったりもしてくれたようですが、そういう”女”としての生き方を自ら選んでいるようで、どこか自信がなく、その生き方に卑屈になっていて、清子へも光子へも劣等感を抱いているように見えます。

 

光子は内気な女性で、あまりはっきりとものを言うことをしませんが、夫・呂平が昔、姉の馴染みの客であったことを結婚した後でも気にとめていて、何となく二人の間を疑っています。それでいて、呂平の帰りが遅くて晩ご飯を一緒に食べられない、となると寂しいと思ってしまう。呂平が死んだ後に何日も泣き続け、突如として愛人が現れても呂平の墓参りに行く。呂平の保険金がおりると、それで喫茶店を開業し、自立していきて行くかと思いきや、開業の支援をしてくれた綱吉と男女の仲になり、逢子と取っ組み合いの喧嘩になる。一人では寂しい、男がいないと生きていけない。ある意味とても女性らしい女性です。

 

母のせいは父親の全員違う4人の子供を生んで、戦中戦後、雑貨店を営みながら必死の思いで子育てをしてきた女性。ただ、苦労話なんて殆どしなくて、子供達にも「そういうところはお父さんにそっくりだ」とかしれっと言っちゃう。ものすごい人生を生きてきたはずなんだけど、えらくサバサバしている。女に振り切っちゃったから父親違いで4人生んでるんだろうに、母親らしさ満点で、あれこれ問題を抱える我が子のことを本当に心配している愛情が伝わってきます。

 

清子はその名の通りというか、清廉さを感じる女の子。映画の冒頭、私生児であることを理由に恋人に振られますが、彼氏に文句も言わず、悔し涙を我慢して仕事に戻るシーンで、彼女の負けん気の強さとか、自立心を強く感じます。男に頼らなくても一人で生きていけるようにとタイピストの資格の勉強をはじめ、男に振り回される姉二人と、いつまでも定職につかない兄、仕事が上手くいかなくて飲んだくれる義兄とか、自分を取り巻く家族のだらしない面に“毒気にあてられて自分までダメになりそうだ”と家を出て行くことを決めます。

 

と、4人の女たちはそれぞれ、はっきりとした個性があります。逢子の自信のなさ、誰かに側にいてもらわないとダメな光子、清子の一人で生きていけるようになりたいという自立心…。だから、この映画を観た女の人は、特定の誰かに、というよりも、それぞれのどこかに、自分に似た部分をみつけるのではないかと思います(せいさんについて書いてないのは、生き方が突飛でカッコよすぎたから)。それ故に、この姉妹・親子をめぐる、作り方によってはただの昼ドラ的なドロドロな物語になりうる出来事が、遠く離れたところで展開される見世物ではなくて、近くで起きている家族の物語として、観客を映画に向き合わせます。

 

なかでも、清子は家族環境を除けば普通の女の子で、スキルを身に付けたいとか、今いる家を出て新しい生活をしよう、とか、多くの若い子、あるいは、おばちゃん達の若かった頃(私もなー)の姿をうつしているように思います。だからなのか、母親との喧嘩の場面はズシンときます。

ゴタゴタしている家に嫌気がさして独り暮らしを始めるべく、その引っ越しの当日、清子とせいは喧嘩になります。家族がそれぞれ問題を抱えている時に見捨てるように出て行くことを母に責められた清子は父親が全員違うということの引け目を感じ続けてきた、と返します。それでも一生懸命育ててきたんだ、と言われると「産んでほしいなんて頼んでない」。それに対して、せいは「子供が出来たら生まなければいけない時代だったんだ!」と。同じ方向(カメラ側に向かって)に視線を落として目を合わせない二人をとらえる絵がとても印象的で、そして、いつもサバサバしているせいが、この喧嘩で涙を流します。

 

問題を抱える親子関係を描く作品でこういう言い合いは定番のようなものですが、清子はすれて、家族にあたって、という不良のように生きてる子ではない。彼女なりにキチンと生きていこうとして、そういう中でぶち当たる、思いつまった心の内、その結果の喧嘩のシーンです。自分ではどうしようもない環境に「どうして生まれてきちゃったかなぁ」って思う、というのは、みんな(だと思うんだけどw)どこかで通る道。それが、他の兄妹ではなくて、清子という、きっと多くの女性が共感できるであろう普通の人生を生きようとする女の子が言葉にすることで、そして、視線をあわせて面と向かって言えないけれど、その場を逃げ出すこともなく語ることで、愛情ある親子の、互いを思いあいながら、それでも言ってしまうという心情の辛さが見えて、このシーンが”よくある場面”ではなくて、この映画の特別なシーンとして、そして、どの親子にも起こりうることとして見せられたようで、ズシンときたのだと思います。

 

と、いうわけで、空いた時間に観られる映画、という理由で観てきた「稲妻」。そんなきっかけでまたも素敵な映画を観ることができて、他の大庭監督の作品も機会を見つけてみてみたいな、と思ったのでした(あと、せい役の望月優子さんも素敵な女優さんだったので、こちらもまた気にしてチェックしていきたい)。

 

そうそう、本作は1967年の作品なのにまさかのモノクロ映画。倍賞千恵子さんと輝雄さんの共演作で1964年に撮影されている「恋人よ」という作品があって(町工場の工員という、輝雄さんのフィルモグラフィー的にはたぶんレアな役!)、はたしてこちらはカラーなのか、モノクロなのか気になって、また図書館で調べなきゃだわ、と思った鑑賞後でもありましたw(結局、話がそこに落ち着くのかw)