T’s Line blog-映画についての備忘録-

兼業主婦が仕事と子育ての合間に見た映画などについて、さらにその合間に綴るブログです。ブログタイトルのTは好きな俳優さんのお名前のイニシャルがことごとく「T」なため。LineはTのうちのお一人の主演作、新東宝「地帯シリーズ」から拝借しています。。

小津安二郎監督「麦秋」

「まぁ、私たちはいいほうだよ」そう思ってくれていたら、と思う。

 

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【映画についての備忘録その52】

小津安二郎監督×原節子主演「麦秋」(1951年)

 

 

北鎌倉に暮らす間宮家は、周吉(菅井一郎)と妻の志げ(東山千栄子)、長男・康一(笠智衆)とその妻の史子(三宅邦子)と子供2人、そして長女・紀子(原節子)の大所帯である。

28歳になってまだ独身の紀子に、ある時、上司の佐竹(佐野周二)が、縁談を持ちかける。善通寺の名家だという縁談相手に、周吉夫婦も康一夫婦も乗り気になる。ところが相手が40歳だと聞いて、志げのほうは紀子がかわいそうだと曇った表情に。紀子の年齢もあるのだからと、康一はそんな母親を叱るのだが、とうの紀子のほうは乗り気のようでいていつまでもはっきりとした返事をせず、両親や兄夫婦を心配させるのだが・・・。

 

 

今回の小津作品は「麦秋」。娘が嫁ぐ日までの家族のありようを面白く描きながら、最後は見送る側の優しさと寂しさみたいなものを感じさせて終わるのは、これまで観た嫁入りもの(そんなくくりあるのか!?)「秋日和」とか「秋刀魚の味」と同じでした。

ただ、「麦秋」は他の二作と違って、大家族、そして1951年という、まだ、戦争の傷跡が残っている時代であるが故、また少し、映画から受ける印象も異なっていて。今と変わらない日常の風景に笑いながら、それでいて、喪失感からくる寂しさみたいなものをより強く感じさせて終わるのでした。

 

と、ちょっと寂しい出だしですが、基本的にはやっぱり、私がいメージする小津監督らしい、なんでもない日常を切り取った映画で、笑って観ている時間は多くて。

 

28歳独身の紀子。女学校時代の友達4人で集まると、独身組と既婚組で分かれて、面白おかしく言い合いになります(笑)特に同じ独身組のアヤ(淡島千景)とは、仲良くてしょっちゅう会っています。

既婚組の愚痴を聞くと、「結婚しないから自由だわ!」とからかい、からかわれた既婚組は「実績がないのに言う権利ないわよ!」なんて言っていますw鎌倉の紀子の家で4人で集まろう、と話していたのに、当日は既婚組はダンナさんの事情に引っ張られて、結局参加できなくて、”ふられちゃう”二人。この辺の感覚、昔から変わらないんだなぁ、っていう(笑)学生時代からのノリできていたのが、結婚を機に少しずつ変わっていくのは、いつの世でも女性の間では同じ事のようです。

  

なかでもめちゃめちゃ笑ったのが勇と実の兄弟。とくに弟はちょうど我が子くらいの年齢なので、クスクスし通し。

ポリポリ掻きながらぼんやりとお目覚め(笑)朝ご飯前に顔を洗いなさい、と言われると、適当に洗面所まで行って戻ってきます。戻ってくるのがずいぶん早いので(笑)洗ってないでしょ?と紀子に言われるともう一度洗面所に行き、タオルだけ濡らして戻ってきます(笑)やっぱり洗ってないことを指摘されるんだけど「嘘だと思うならタオル濡れてるからみてよ」みたいな口答えwしれっとこういうバレバレバレの嘘を言ったり。

おじいちゃんに爪を切ってもらってきちんとお行儀よくできたので、ご褒美に飴をもらうのですが、「おじいちゃんの事好きって言ったらもっとあげるぞ」と言われて「大好き」を連発して、沢山もらったあとで平気で「大嫌い」って言ってみたり(笑)

気遣いなんて頭にない子供は、実は結構大人目線でいうと残酷なことを平気でやったり言ったりするっていうことを(笑)ほんとに自然に物語のなかに入れていて、笑いを誘われるのです。

 

大人だけでケーキを食べてたら子供が起きてきて慌ててケーキを隠してみたりとか(笑)誰にでも経験のあるような日常の連続。大家族だからそれぞれの世代の面白さが描かれていて、それ故に、最後の寂しさが際立って響いてきます。

 

周吉と志げは大家族のやりくりは康一夫婦に任せ、博物館に2人ででかけたり余生を過ごす、といった感じ。紀子の結婚が決まれば大和の兄のところへ引っ越すつもりでいます。

そんな穏やかな二人の、その奥底にしまっている深い思いをわずかに見せ、そしてとても心に響くシーンがありました。それが、次男について語る場面。間宮家にはもう1人、戦争に行ったまま帰ってこない次男坊がいます。映画の最初からその影はチラチラと見えていたのですが、中盤で、次男の同級生・謙吉(二本柳寛)の母親と話しているシーンで、そのことがはっきりと、見ている側の目の前に現れます。周吉はもう帰ってくることを諦め、しげはまだどこかで生きている望みを抱き、ラジオ放送に耳を傾けている。それ以上のことは語りません。

康一は医者で間宮家もその友人たちもそれなりに豊かな生活を送っているように見えていたなかで、1951年、戦争、というものを意識させられ、当時の人たちの、豊かになっていく過程でしっかりと刻み付けられている悲しさみたいなものを突如として突きつけられたような感じがして、とても印象的なシーンでした。

 

縁談の相手が40歳だと知って紀子の心配をする志げ。紀子のことを心配して、逆にそんな志げを叱る康一。紀子が自分で決めた予想外の結婚相手に慌てて本気で心配をする家族。そんな子供たちの成長に、「自分一人で大きくなったような気でいて」とどこか寂しく思いながら子供達の意志に任せている周吉と志げ。そして、義姉だけれど本当の姉妹のように紀子のことを心配する史子や、子供たちには子供たちの理屈があるってことまで。それぞれの人物がきちんと描かれています。紀子が主役のつもりで観ていたら、気がついたら家族全員が主人公のような映画なのです。だから、紀子の結婚のあとで、その個性のある家族たちがバラバラに暮らしていくことになる喪失感をすごく感じて。。。

 

次男を失い、娘は遠くに嫁ぎ、家族の思い出のつまった鎌倉の家から離れ…。大和で暮らし始めてからの二人の気持ち。それが―「まぁ、私たちはいいほうだよ」―。周吉が志げに言った台詞です。

私はもうすでに両親はいないのですが、小津作品を観ていると、自分の親のことを思い出したり、考えることがあります。そして、今作のこの台詞。豊かな家ではなかったし、最後は生まれ育った地元を離れて大阪にいる姉のもとで暮らし…と、元気だったころとはまったく違う形になった人生の最後の数年。ただ、子供たちはそれぞれ独立して我が子を育て、一生懸命に生きています。だから、うちの両親も「まぁ、私たちはいいほうだよ」と、そう思って終わってくれていたらいいな、とこの映画を観て思ったのでした。

 

 

またもや松竹大谷図書館で50年前の吉田輝雄を追っかける

久しぶりに行ってきました!松竹大谷図書館。 

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もう、これはミーハーというかオタクというか、にふりきった、まさに自分のための備忘録(∀)吉田輝雄さんについての「かっこいい!」って感想とあれこれの想像で埋め尽くされていますので。+゚(*ノ∀`)図書館の感想を期待して開かれた方はスルーしてください。

 

去年の7月以来かな。今回も近くで10時から朝ごはんを食べ、図書館に向かい、文字通り、飲まず食わずでw保育園のお迎えに間に合う夕方近くまで引きこもっておりました。ここにいるとあっという間に時間がすぎちゃうのです!楽しい♪

 

 

今回の一番の目的は小津監督が書かれた「大根と人参」のプロット(なのか?とにかく資料)を読みたい、というもの。ところが、これは残念ながらなくて(あとで「小津安二郎全集」という本に収録されていて、地元の図書館で借りられることに気づいたんですけどσ(^_^;)、ということで、あっさり次の目的に。「吉田輝雄三昧するぞヾ(o´∀`o)ノ」ということでwいつも通りに!?輝雄さんのご出演作の資料(公開時の新聞記事などを切り抜いたスクラップブックやプレスシート)でまだ見れていなかった「続・愛染かつら」と「女弥次喜多 タッチ旅行」、それから去年見たけどもう1回見直したい!と思った「愛染かつら」と「日本ゼロ地帯 夜を狙え」の資料を見てきました。

 

 

「女弥次喜多 タッチ旅行」のほうは輝雄さんのことはほとんど載ってなくて(ってか、62年、64年と体調を崩して入院しておられるようなので、こんな役で酷使しないで休ませてあげて!って思ったんですけど)、色々読み飛ばしてw記憶に残ったことは、最初は鰐淵晴子さんが主演の予定だったけど体調崩して牧紀子さんに変わったこと(弘田三枝子さんとの並びも鰐淵さんのほうがまとまってただろうな、と思って納得でした)、岩本多代さんを松竹が「第2の岩下志麻」的に売りだそうとしていたこと(驚き)、あと、上村力監督の第1作「愛する」が面白そうで見てみたくなったこと、でした。読み飛ばしすぎw

 

はい、で、さてさて本題の備忘録。

 

「続・愛染かつら」(1962年公開)

まずはスチル写真。輝雄さんも茉莉子さんもキレイで、二人が向き合って抱き合う写真とか、もう、ほわ~っ(っ´ω`c)となってしまいます。ほんとにキレイ、このお二人。目の保養。

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自分の持っている「続・愛染かつら」のスチル写真。他にもきれいなお二人の写真がいっぱいでした♪

スクラップブックの記事は、戦前の物語を1962年に置き換えるにあたっての苦労とか、輝雄さん×茉莉子さんの組み合わせについて(これで3作目)、そしてロケ地について、といった内容。

「愛染かつら」の続編は元々考えてはいなかったようで、前作のヒットをうけて作成した様子(ヒットしたら作ろう、とかはあったでしょうけど)。前作は東京と京都でしたが、今回は北海道。北海道は同じくメロドラマのヒット作「君の名は」でも舞台になっていたようで、これにあやかって、ということのようです。

前作の「愛染かつら」が、これはこれできちんと完結しているので、現代版の続編を作るにあたって、中村監督は2人のすれ違いや離れ離れになるハードルをどう作るか(戦前のものは従軍医師として大陸に渡る浩三と歌手として慰問するかつ枝のすれ違い、という感じだったようです)、かなり苦心された様子。このすれ違いを描く難しさに中村監督も「次回作はもう考えられないよ」と撮影時からコメントされておりました(笑)

すれ違いだらけの「愛染かつら」、続のほうも同じくで、二人一緒のシーンはやはりあまりない様子。でも、予告編のために二人一緒のシーンを北海道で撮影されたりしていたようで、そして、スチル写真にもツーショットがいっぱい(そりゃ、本編で会わなくても二人の一緒のシーンが見たいですもんね)!というわけで、本編だけじゃなくて予告編も入れて、ぜひソフト化を!松竹さん人´ω`)オ

 

そして、この映画のスクラップの記事で一番印象に残ったのが、宣伝用の浩三様とかつ枝さんのツーショット撮影のお話。輝雄さんは自前の背広に銀座で作らせたというハイ・カラーのYシャツ&濃紺のネクタイというスタイルでこの撮影に現れたそう。で、中村監督と茉莉子さんに「よろしく」と挨拶をしたとたんに、二人から「いかしすぎてるよ」「浩三さん、もっと野暮ったくしてくれないかな」と注文をうけてあわててネクタイを取り替えた、と(笑)

さすが元モデル!というよりも(笑)、デビューしてからまだ2年そこそこで、飛び抜けたハンサムさん故(この理由は私の勝手な思い込みですが(∀)多分、間違いないでしょう)、松竹でも主演俳優になり、大物監督の作品で大女優さんの相手・・・も、まだなんだか役者慣れしてなくて、役より前に地がでちゃったのね(っ´ω`c)という感じ。

他にも、このときもまだメロドラマを演じるにあたって照れくささがぬけていなかったようで、「役者なんだから照れてちゃダメだよね」みたいなコメントがあって、俳優としてまだまだ手探りな若き吉田輝雄のエピソード連発で、「なんという、かわいらしさ(´▽`)」と男子を子育て中の兼業主婦は、息子の成長を見守る母親のような気分で、資料を眺めていたのでした(´▽`)

 

そして、ポジフィルムもスクラップブックに貼り付けてあったのですが、この中に詰め襟の学ラン姿を発見!「男の世界だ」でも学ラン姿を拝見していますが、このときはめちゃめちゃ自然で、役柄どおりいかにも大学生って感じでしたが、あれから2年経って、漂う違和感(笑)でもカッコいいヾ(o´∀`o)ノ

 

茉莉子さんは、インタビューでは「松竹のヒットは私と吉田さんを組ませたことね」みたいな余裕のコメントで、さすがスター女優!って感じ。前作は看護師の庶民的な服装が多かったかつ枝さんですが、“続”のほうは売れっ子歌手として、服装も華やかに。茉莉子さんはこういったドラマのヒロインの型を現代的にしていくのに苦心されていた様です。

 

そして、「続・愛染かつら」の撮影のときに同じくこの時期に人気のあった映画「あの橋の畔で」の撮影とかぶっていて、メロドラマをひっぱるコンビ2組、といった感じでこちらの主演の桑野みゆきさんと園井啓介さんと、輝雄さん、茉莉子さんで撮影会みたいな記事もありました。お互い、相手を変えての映画も撮影していて(輝雄さん×桑野さんは「求人旅行」があったり)、仲良そうな感じ。園井さんは「ゴールドアイ」(悪役)と「夜の片鱗」しか見てないからかもですが、やはりこの4人の並びではどうにも地味な感じがして。。。ちょっとかわいそうでした(^-^;)どう考えてもこの2人では格好良さのレベルが違う。+゚(*ノ∀`)

 

 

こっからは見返した資料の備忘録。

「愛染かつら」(1962年公開)

こちらは、すっかり忘れていたけど、戦前の映画のスチル写真などもしっかりスクラップブックのなかに。中村監督は戦後にこの作品を編集して上映したときに編集を担当されていたそうで(読んだはずなのに忘れてた)、その縁もあっての監督起用かな、なんてお話が。

 

輝雄さんについては、人間性をベタ褒めの記事がたくさん。うむ、演技は硬いからね、ほめにくいね。+゚(*ノ∀`) 当時の若者向けの雑誌には見開きで輝雄さんの記事。新東宝時代の宣伝課長だった方のコメントなんかも出ていて、”顔も中身もいいヤツ”って感じ(だから、“全女性あこがれのハンサム”とか“吉田輝雄の魅力をこの一作に集中”とかいう惹句ができあがるのね!とw)。その記事にあったスーツを着て爽やかに微笑む立ち姿とか、ほんとに1962年の男子なの!?って感じで、なんというか、とても今っぽい格好良さなのです(・∀・)

 

松竹に入ってから、「今年の恋」(ラブコメ)→「男の歌」(アクション)ときてメロドラマの「愛染かつら」と、全くカラーの違う作品に出ていた輝雄さん、「何が向いているのか分からない」と考えておられたよう。それに対して佐田啓二さんからは「今はとにかく色んな役をやって役者としての魅力をつけろ」的なアドバイスをもらい、茉莉子さんは「会社もちゃんと考えてくれてるから大丈夫」みたいなアドバイスをしていて、そして、中村監督には「アクションやってたから目つきがキツイけどセンスはいいぞ」とか言われ(これは褒めているのか??)、松竹の新人となった輝雄さんをみんなで盛り上げてる感じが伝わります。

 

1970年の渋くてかっこいい吉岡さん(「ゴールドアイ」)が最初に吉田輝雄さんを観た作品だったので、大人の格好良さ全開の人が子供扱いされているよ!って感じでかわいくて(なお、プレスシートなどには1962年のホープと書かれておりました。「黄線地帯」の予告編は1960年のホープ、ってなってたな、とかw)、去年の1月に見て以来の再見は、前回と違う視点で(´∀`*)となる時間でありました。

 

 

「日本ゼロ地帯 夜を狙え」(1966年公開)

今回ついに、映画そのものを観ていないというのに、我慢できずにw完成台本を読んでしまい(笑)そして、当時のスクラップブックを再見。スクラップブック、前回はたしか7月に来たときに見ていて、それ以来。

 

輝雄さんのフィルモグラフィを見ると、「夜を狙え」の前年が、テレビドラマ版「愛染かつら」など殆どテレビしか出演されていません(それでも視聴率40%越えで人気だったようです。そして、映画は2作だけ。しかもそのうちの1作は友情出演みたいな感じのようで)。

これについて、”吉田輝雄は干されている”とマスコミでささやかれ、松竹でも噂されているけど、どうなの?って感じの、ご本人のインタビューを含む解説記事があり。65年の映画の少なさは私もフィルモグラフィ眺めながら「なぜなんだろう?」と気になっていたことだったので、これをあらためて読んで勝手に想像して色々感慨深くなったりw

記事に書かれていた要因は・前年にご結婚されたことをマスコミに報告してなかったことで週刊誌にゴシップネタにされる・体調をくずしていた(何度か入院されています)・そういう状況で30歳になって若手から中堅への切り替え時期であり、下の世代が出てきたこと・メロドラマのイメージが付きすぎて、その状態で映画界の流れがメロドラマと異なる方に流れていったことで松竹も使いにくくなった。。。とか。で「愛染かつら」の頃からみて、時流に外れてしまったという感じをご自身が抱えていたところで、石井監督が松竹で映画を撮ることになり、直接声をかけてもらったのが「日本ゼロ地帯 夜を狙え」。

石井監督に声かけられて嬉しかったというのと、「ここからまたやってやる!」って気持ちがめちゃめちゃ感じられる記事で。個人的に「網走番外地」とかこの作品のスチル写真なんかで見る1966年の作品の吉田輝雄は、渋さと色気が加わってめちゃかっこいい!と思ってるんですが(どの年もかっこいいって言ってるとかいうツッコミはなしでw)、それもこういう経緯があって出てきたものなのかな、なんて想像したり(妄想爆発(゜∀゜))

 

この作品、主演は竹脇無我さんで、二人そろってのインタビューの記事などもありました。竹脇さんもこの時期、恋愛モノをやったり色々だったようで、「吉田さんはアクションもメロドラマもどっちもできるけれど、僕は女の子と抱き合っていても次に何をしたらいいのか、と思ってしまう」なんて話していて、それに対して輝雄さんは「照れてやってちゃダメだよ」とか、色々とアドバイスされていて、「あんな照れくさがってた青年が( ´艸`)」と、その俳優らしいコメントに、やはり息子の成長をみる母親のような気分になるのでした(´▽`)(そして、亡くなるまで仲が良かったとお話しされていた竹脇無我さんとは、ほんとに兄弟のような仲よさそうな雰囲気の伝わるインタビュー記事でした)。

 

で、読んでしまった台本のほうは、やっぱり、「主演じゃないのに美味しいところは吉田輝雄が持って行きます!」でした。「女体渦巻島」の信彦のように、愛する女性のために生き、ただ、その女性には裏切られ。。。という切ない展開。戦時中~戦後、そして現代(1966年)と続く話で、輝雄さん演じる橘は学徒出陣して復員兵として戻ってきて―。で、この復員兵姿、スクラップブックの白黒写真しかないんですけど、すんごいかっこよくて(あとでSNSを通じて映画のキャプチャ画像をいただき、まさに、息が止まるかと思った!って感じのかっこよさでした(≧∀≦))、台本みてますます見たくなってしまったのでした。これもなぁ、「大悪党作戦」「神火101 殺しの用心棒」と石井監督の他の松竹作品と一緒にソフト化しておくれよ!松竹さん人´ω`)オ

 

 

というわけで、想像と妄想を働かせながら読んでいたらあっという間に時間になってしまったのでした。1度見た資料も、「愛染かつら」は映画を見る前と見た後では気になることが異なっていたりして面白くて。また、懲りずに松竹大谷図書館に行くことになりそうですw

小津安二郎監督「大学は出たけれど」/「突貫小僧」

ペーソスとスラップスティック。その振り幅はチャップリンのようで。

  

 

ちょっと今回は変則的に2本まとめて書きます。

 

【映画についての備忘録その51】

小津安二郎監督 「大学は出たけれど」(1929年9月)/「突貫小僧」(1929年11月)

 

「大学は出たけれど」

大学を出て就職先を探している野本徹夫(高田稔)は、職探しの日々。面接にこぎつけても紹介される仕事は受付だと言われ、大学出のプライドで怒って出てきてしまう始末。しかし、田舎に残した親には立派な仕事が見つかったと連絡し、母親は婚約者の町子(田中絹代)を連れて上京する。そうして町子と二人の暮らしが始まったが、相変わらず。いつまでも職探しに明け暮れる徹夫に貯金もなくなっていき、町子はついに徹夫に内緒でカフェーで働き始めるのだが。。。

 

「突貫小僧」

路地で遊んでいる子供たちを離れたところから見ている男。人さらいの文吉(斎藤達雄)である。文吉は子供たちの中からメガネをかけた小さな男の子・鉄坊(青木富夫)に声をかけ、人さらいの親分と暮らす家まで連れて行くことにする。ところがこの鉄坊、なかなか手ごわく、途中で泣いては文吉におもちゃを買わせたり、菓子パンを買わせたり。やっとの思いで家につくと、今度は親分(坂本武)にもおもちゃの吹き矢をそのはげ頭に吹いてみたりとイタズラしほうだい。とうとう親分も手を焼いて、鉄坊を捨ててきてしまえ!と怒り出し。。。

 

というお話。

最近は時間ができると「愛染かつら」(というか浩三さま)を観る、みたいな日々だったため(笑)新しい作品を観ることもなくて、更新のネタもありませんでした(新しい作品を観るときって体力気力もいりますし、ちょっとそれも足りなかったりσ(^_^;)w

 

U-nextの配信で見ました。どちらもサイレント映画です。「大学は出たけれど」は70分、「突貫小僧」は37分が公開時の長さだそうですが、今、現存して観ることができるのはそれぞれ前者が11分、後者が14分だけ。「大学は出たけれど」は断片の、そしておそらく最初の11分、「突貫小僧」は結末までをうまくまとめた短縮版(ソフト販売用にまとめたものだそうです。なので、こちらはソフト化にあわせて寺田農さんと倍賞智恵子さんのナレーションなどが入っているものです)の14分です。久しぶりの更新なのに、なんでこんな短編、しかもまだ観てない小津作品がたくさんあるのに、っていうと、親知らずを抜いた日の夜に観たので、痛くて長いものが観られる気がしなかったからw

 

で、さて本題。

「大学を出たけれど」をチョイスしたのは短い作品を観る理由があったのとw何より原作が清水宏監督だったからでした。そしたらまぁ、笑いとペーソスの両方がぎっしりと詰まった11分で。

 

徹夫は就職をしたと信じている母を安心させようと、会社に行くふりをして出かけては、公園の子供たちと遊んで過ごします。その子供たちと遊ぶシーンにはさまれる字幕には「野本の勤務先」の文字(笑)

町子と暮らし始めてから出勤する素振りのない徹夫に「仕事に間に合わないわよ」と心配する町子に、徹夫は自分が読んでいた雑誌「サンデー毎日」の誌名を見せて(笑)自分が無職であることを伝えたり。。。

 

こんなちょっぴり悲しい事実の中にクスっと笑う場面がちりばめられながら、徹夫と町子がお互いを思いやる気持ちが短い時間なのに存分に感じられます。

 

徹夫がいつまでも仕事探しをしているので貯金がそこを尽きそう、、、となって、町子は黙ってカフェーで働き始めます。そして、町子の化粧がカフェーの女給さんのようになったな、とその変化に気付く徹夫(きちんと奥さんのこと見てます)。そして、友人に誘われて入ったカフェーで町子を見かけます。その晩、「誰があんなところで働けと言った!」と町子を責めるのですが、「働く者が一番幸せだと思っただけです」、という町子の言葉に自分自身を反省し、受付しか仕事がない、といわれて怒って出てきた会社に頭を下げに行きます。・・・そして、土砂降りの雨のなか、プライドを捨てて仕事にありついた夫を出迎える町子。

すれ違いもありながら、でも、互いのことをきちんと思いやって理解し合い一緒に歩んでいこうとする、そういう話なのだろう、というのがこの短いなかでわかり、小津監督、清水監督、それぞれの作品を観終わったあとに感じられる優しい何かがしっかりと伝わってきます。

 

で、結局、10分観て「うお~、全部観たいやんけ!!」というもうどうしようもない猛烈な後悔に襲われたのでしたw(マジでどっかから出てこないかな)

 

 

「突貫小僧」のほうはというと。。。

こちらはもう、叙情的なものは一切なくてw鉄坊の親が心配するとか、親分と子分の悲哀とかwそんなものは何もありませんw

悪い大人をやりこめる頭のキレる男の子、子供に振り回される悪い大人、振り回されててこずって、バシバシ子供をたたく親分(ここはちょっと、今の基準で見ると気分のいいものではなかったのですが(^◇^;))、でも、それを屁とも思わない鉄坊。そういうのを見てただただ笑ってくれ!みたいな話。編集されてなくなっている部分をつないでも、きっとこういうひたすら笑いをとる、そういう要素しかないんじゃないかと思いますw

(ドライに笑いに振り切っている映画に、編集版のナレーション(解説&鉄坊の台詞が入っています)がちょっと邪魔な気がしたくらいです)

 

というわけで見出し。

私、初期のスラップスティックコメディから「ニューヨークの王様」まで、あらゆる作品を観てチャップリンにはまっていた時期もあるのですが(どれくらい好きかというと自伝も買って、Vapから出されていたドキュメンタリービデオも観て、というくらい)、チャップリンというと「モダンタイムス」とか「黄金狂時代」みたいな“笑いとペーソス”で語られがちですが、初期作品はあの山高帽の放浪者はただのトラブルメーカーだったりして(笑)作品のカラーは時代とともに変遷していきます。今回たまたま観たこの2本は、チャップリンが長い間かけて変化してきた、その2種類の喜劇を1年のうちに両方撮ってしまった小津監督の、その振り幅の広さに驚いた2本なのでありました。

(そして、清水監督がますます好きになるのでしたw)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清水宏監督「按摩と女」

 言葉はなくても気持ちは伝わる 

 
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【映画についての備忘録その50】

清水宏監督×高峰三枝子主演「按摩と女」(1938年)

 

按摩の徳市(徳大寺伸)と福市(日守新一)が山の温泉場へと向かい歩いている。二人は盲目ながら優れたカンの持ち主で、向かいから来る人が何人連れか、そばを通る人たちの素性は?そんなことを言い当てて楽しみながら山道を歩く。
着いた温泉場で徳市は東京から来た女(高峰三枝子)に呼ばれる。徳市は、彼女が来る途中に自分を追い抜いていった女だと気づく。だが少し影のあるこの女に徳市は惚れてしまうのだった。一方、女のほうは温泉場に来る途中の馬車で一緒になった少年とその叔父だという男(佐分利信)と親しくなる。
その頃この温泉場では次々と盗難事件が発生し、徳市は彼女が犯人ではないかと疑い始める…。

 

U-nextの配信で観ました。「有りがたうさん」の1作を観ただけで好きな監督さんになってしまった清水宏監督。今作は66分で「有りがたうさん」よりさらに短いのですけど、やはり、多くは語らないのに深く思いを馳せる、という、素敵な映画でした。

 

 

徳市と福市が山道を歩く最初から会話は楽しく、明るく、按摩の二人が哀れみの対象―要するに感動ポルノ的な”大変な境遇を頑張っている人”という扱い―などではない、ということを明示してくれます。彼らの道中の楽しみはめあきを追い越してどんどん先に進んで歩くこと。そして、向かいから来るひとたちの足音から「8人くる」「いや、8人半」だ(半はおんぶされた赤ちゃんでしたw)なんて言い合っています。温泉場で一緒になる学生や子供が二人をからかうシーン(目の前で団扇だとかをひらひらさせてみたりw)なんかもあるのですけど、それも不愉快な感じは全然なくて、めくらもめあきも(映画のなかで使われているのでそのまま書きます)特別扱いではなくて、一緒に、分け隔てなく、生きているんだぞ、という感じ。徳市なんて、温泉場までの山道で自分を追い越していったハイキングの男子学生に按摩を頼まれたのをこれ幸いと、きつ~く揉んで、翌朝学生はかえって足を痛めてしまい、同じ旅館にもう一泊、なんて状況になりますw直接的な言葉や台詞はなくても、そういった描写の一つ一つから清水監督の思い描く、垣根のない優しい世界が伝わってきて、こちらも優しい気持ちになります。

 

そして、少年を媒介として、徳市と東京から来た女、少年の叔父と東京から来た女の関係もやはり、直接的に言葉にはしなくても、それぞれへの思いがにじみ出ています。

女は東京へはいつ帰るのか?東京で会ってももう知らない人になってしまうのでは?となかなか温泉場から帰れず宿泊を伸ばす叔父。

女と叔父が小さな橋でふたり話しているのを感づいて、”勘の良い”徳市が気づかない振りをしてとおりすぎる。

盗難事件の犯人ではないかと疑って、警察が来たと分かると必死の思いで見えない目で女をひっぱって匿う徳市。

そして、楽しい話相手だった女が叔父さんとの話しに夢中になって遊んでくれなくなってつまらないので、さっさと東京に帰りたい少年(笑)

直接的な言葉は口にしていないのに、それぞれの気持ちが伝わってきます。

 

・・・映画の良さがぜんぜん伝わらない、この文才のなさorz

 

喜劇かと思って見ていたら、最後は女の思わぬ境遇と温泉場を発つ女を見送る徳市の姿になんとも言えぬ感情を引き起こされます。そのラストシーンまで、言葉にしない故に伝わる思い。そして、やはり「有りがたうさん」と同じく、優しい思いが溢れているのに人情モノのような押しつけ感がなくてさらりとしている。見終わったあとの気分がとてもよくて、次の清水作品は何を見ようかと、今からまた考えているのでありました。

 

【おまけ】

東宝では(というか石井輝男作品では、なのか?)エロオヤジな悪役でお馴染みの(!?)近衛敏明さんが、徳市にマッサージされて逆に足を痛めちゃうという男子学生の中の一人で登場しておりました。いやー、もう、ビジュアルよりも声で気付いたんですけど、ビジュアルもさほど変わってなくてw「女体渦巻島」とかより20年くらい前だというのにw

高橋治監督「死者との結婚」

無駄のないサスペンスは渡辺文雄で拍車がかかる。

 

 

死者との結婚 (ハヤカワ・ミステリ文庫 9-3)

死者との結婚 (ハヤカワ・ミステリ文庫 9-3)

 

 ポスターの写真撮りそびれて画像ないから小説でw

 

 

【映画についての備忘録その49】高橋治監督×小山明子主演「死者との結婚」(1960年)

 

都会のビルの屋上。子供を宿して死ぬという女と勝手にしろという男。女は死ぬのをやめ、男を恨みながら生きると決めた。

夜の瀬戸内海をゆく一隻の汽船。甲板に立つ女、石井光子(小山明子)は一度は生きてやろうと思ったがあてもないゆえに、体の中の小さい生命ごと死のうとする。しかし、そこで保科忠一と妻の妙子に声をかけられ、二人は光子を励ました。保科夫妻はアメリカで知り合って結婚し、近く生れる子供共々故郷に帰るところだという。

船室で光子と妙子二人で話していたとき、船が衝突事故を起す。保科は死に、妙子も死んだ。事故の直前、いたずらに光子の薬指に自分の指輪をはめさせたまま……指輪をつけたままだった光子は妙子と間違われ、病院で意識をとり戻す。そして子供は生れていた。男の子だった。見舞に訪れた義弟の則男(渡辺文雄)も兄の妻として光子と接する。やがて、退院した光子は子供のことを思って真実を話せぬまま、高松の保科家へ向かい、忠一の両親の忠則とすみのも喜んで光子と子供を迎え入れるのだが―。

 

 

こちらもシネマヴェーラ渋谷の「日本ヌーヴェルヴァーグとは何だったのか」特集で鑑賞しました。「狂熱の果て」の一つ前の番組。高橋治監督は吉田輝雄さん主演の「男の歌」の監督さん。「男の歌」を観られる機会がいつ巡ってくるか分からないのでw「狂熱の果て」の鑑賞にあわせて、こちらでどんな作風の監督なのか、偵察(!?)であります|ω・`)チラ

 

「死者との結婚」はなんだか聞き覚えがあるタイトルなんだよなー、と思ったら、有名なミステリー小説のようで。きっと、何度かドラマにもなってますよね。ググっても出てこないけど二時間ドラマにできるストーリーだし、なんか観たことがあるのではという気がして仕方なかったりしますσ(^_^;

 

で、映画のほうはよくできたミステリー小説を上手くまとめた作品、という感じがしました。

冒頭、自分を妊娠させて別れようとする男を前にビルの屋上で自殺を仄めかすシーンは、後ろ姿や足元ばかりがうつり、人物の表情は全く分からないのですが、駆け引きと緊張感が伝わります。そして、船が事故を起こして光子と妙子が入れ替わってしまうまでの展開のスピーディーさ。冒頭で光子を捨てた男についての説明は妙子との会話のほんの少しだけ。展開に無駄がなくて、その上、この男がどんなヤツなのか、興味をひかせたまま、後半までストーリーが進みます。

 

完全にいい人らしい忠則とすみの、という立ち位置と光子のことを妙子と信じているのか疑っているのか分からない則男という人物構成もよくできてきていて(ただ、過去の忠一のことについて、それぞれが異なることを言ったりして、中盤でいったん忠則とすみのの人物像に疑念が出てきたりして、それも面白く)、これが“嘘をついている”という光子の罪悪感と、一方で子供に恵まれた生活をさせてやるためには嘘をついてでも保科家にいたほうがいいという思いを、観る側に一緒に後追いさせます。

そして、なんとか光子が幸せな安定した暮らしを保科家で手に入れたと思ったのも束の間、光子を捨てた男が妙子として暮らしている彼女の前に現れ、どうこの苦境を切り抜け、どんな終焉を迎えるのかという、新たな要素が加わり、サスペンスの緊張感が持続します。うむ、よくできてきています。

 

 

ストーリーがストーリーなので(観ようと思った人が検索してここにたどり着いたときにネタバレしてしまわないようにσ(^_^;)深く書くことはやめておきますが、最後にひとつだけ。則男役の渡辺文雄さん。この前に「秋日和」と「青春残酷物語」そして「徳川女刑罰史」と三作ご出演作をみていて、やっぱり「徳川女刑罰史」の印象が強すぎて、余計にいい人なのかどうなの分からない、というミステリーの要素を(私的に勝手にw)増幅させるという、監督が想定外の効果を後年見ている観客に与えているのでありましたwということで見出し。

山際永三監督「狂熱の果て」

狂熱の果て、女の子は現実をみる。

 

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【映画についての備忘録その48】山際永三監督×星輝美・藤木孝松原緑主演「狂熱の果て」(1961年)

 

 

高校生のミチ(星輝美)とアキ子は終夜営業のレストラン〈六本木〉で大学のレスリング部で大企業の御曹司である健次(松原緑郎)やトランペット吹きの陽二(藤木孝)達と知り合う。ミチの父は元戦犯で今は病床にあったが、同じ戦犯で絞首刑になった北の遺児茂を引取って健次と同じ大学に通わせていた。茂はミチの母と関係を結んでいたが、彼はミチにも欲情の眼を向ける。

こうした歪んだ環境への反抗からミチは健次をリーダーとする六本木族と呼ばれるグループに加わるようになる。ある日ミチの父はガス自殺を計って入院した。家をとび出したミチはアキ子と共に瞬間の刺戟を求めたが心の中は満たされなかった。やがて陽二に惹かれていったミチは、ある夜彼とホテルで関係をもった。

それから間もなく、入院していた父が飛降り自殺をする。父のことを邪険にしていた母に怒り、「みんな勝手にすればいい!」とミチはますます自堕落な生活へと落ちていくのだった―

 

 

シネマヴェーラ渋谷の「日本ヌーヴェルヴァーグとは何だったのか」特集で鑑賞。この映画は長らくフィルムが失われていたと思われていた作品だったそうですが、国立映画アーカイブのページによると「倒産後の新東宝作品を配給した大宝の第1回配給作品となったが、同社も1年後には解散。本作がデビューとなった山際永三監督による入念な調査により、原版の受贈とプリント作製が可能になった。」ということで2018年に公開時以来!?の上映となった作品です。六本木族ってなに?とかいうこともありつつ、このドラマチック(!?)な発掘と、新東宝つながりだし、そして一番何よりかっこいいタイトルが気になって!見てみたいなぁ、と思っていたんですが、これがシネマヴェーラで星輝美さん、藤木孝さん、山際監督がそろうというすんごいトークショーつきで見られるということで行ってきました(パパ、ありがとう!)。

 

松竹ヌーヴェルヴァーグの代表、大島渚監督の「青春残酷物語」を見て、「こりゃだめだ、向いてない」と思ったわけですが(^-^;)今作も無軌道な若者とかそういうのはまったく共感がもてなかったのですがσ(^_^;ただ、こちらはもっとストレートで、当時の若者のパワーを記録しいる、そんな映画でした。

 

ミチも健次も陽二もみんなとにかく自分のやりたいようにやっています。その結果、それぞれに最悪な結末が待っていますが、この映画はそれに対して別に憐れみだとかも感じさせないような、淡々と破滅していく様子を描いています。ストーリーの展開とかは結構唐突な感じがして(^-^;)よく練られた作品という感じではなく、エピソードありきでそれをなんとか繋いでいく、そんな風に見えました。それぞれのエピソードは結構衝撃的で(例えばミチの父親は精神を病んでいて、さらには茂と妻が関係を持ったことでますます追い詰められ自殺。健次は父親の持つ葉山の別荘に仲間を引き連れて行く途中でひき逃げ、殺人を犯したりなどなど。)インパクトは強いけど、必然性は感じないような展開。逆に言えば、それが、ここに出てくる若者達の無軌道で、これと言った目的もなくて、ただその場が楽しければいい、そういう生き方を表しているようでもありました。

 

“狂熱”は“狂おしいほどの情熱”ってことだそうですが、その情熱のぶつける先を見いだせないミチたち。映画の殆どはそのパワーが飲んで、踊って、騒いで、ケンカして、そして誰かと誰かがくっついて、に向かっている様子が描かれています。で、その刹那的な有様は、ミチと陽二が二人、モーターボートでガソリンがきれるところまで海を飛ばし、二人きりになる、というところで突然終焉へと向かいます。

最初は広い海で太陽の下で二人きりになれたことに開放感を感じ、また二人の愛を確かめ合う、というなんとも若者らしい幸福感に満ちているのですが、やがて食べるものもなく、どこにいるかも分からない状況で不安が募っていき、ケンカが始まります(そりゃそうだ)。陽二は二人きりで死ぬことに幸福感を覚え、一方でミチは父親を追い詰め、自分を襲った茂を恨み、復讐もしてないのに死ぬなんて嫌だ、と思っています。夢の中にいて死にたい男の子と現実を見て生きることに執着する女の子。いつまでも若者らしく夢のまま死んでいくのかと思いきや、まさかの展開。

 

二人は結局漁船に助けられるのですが、陽二は健次と茂にひき逃げの罪を着せられて逮捕され、ミチは茂と一緒に葉山から東京へ戻ります。いつまでもミチと二人で生きたいと監視の警察官を殺害して逃亡した陽二はミチの元へやってきますが、ミチは逃亡犯として逮捕される健次をジッとたって見つめたまま。

 

この狂熱からさめない男の子とさめた女の子の対比はなかなかに残酷。1961年というと、前年が安保闘争とかやってた時代で、何となく、そういう空気感もこの二人に反映されてるのかも、と考えてみたり(これは同時に上映されていた山際監督の自主制作映画などの印象も含めてそう思うのかな)。

 

さてさて、主演のお二人について。ミチ役の星輝美さん、めちゃめちゃキュートでした!これ以外で観たことがある作品は「女体渦巻島」だけで、「女体渦巻島」の星さんは田舎っぽい女の子って感じしかしないんですけど(^-^;)これもう、石井監督の撮り方が悪い!って結論に(笑)今作の星さんはほんとに可愛かったです!その後のトークショーで「演技が上手くならなくてむいてないと思って引退した」とお話をされていましたが、全然そんなことなくて、体当たりの演技で印象的なミチでした。

藤木孝さんはこれが初主演&初演技だったそう。たしかに硬さはありましたが(それでも「女体渦巻島」の輝雄さんより全然こなれてたけどw)、すでにあの独特の存在感はしっかりとスクリーンにおさめられていました。映画の中では歌は聴けなくてトランペッター🎺という設定なのが勿体なかったぞ!

 

【2019/2/3トークショー

本編終了後に、主演のお二人&山際監督が揃うというすごいトークショー

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この写真でも分かりますが、藤木さんはさすが、という感じで、お声もしゃべり方も若々しく、背筋もピンと伸びていらして、かっこよいおじいさんでした(おじいさんって言うのは失礼かもって感じ)。まだまだ現役で活躍されているというのに、とても丁寧にお話をしてくださいました。

星さんも映画の面影をとどめていらして、チャーミング。山際監督はスタッフにはめっちゃ怖かったそうですがwそんな風にはまったく見えないやさしそうなおじいちゃんでした。

 

お話は新東宝が解散する時期のドタバタ感(この映画も予算がなくて700万で作ったってお話だったかな。公開したと思ったらもう東京でやってなかった!なんてお話もw)や、共演の松原緑郎さん、鳴門洋二さんの新東宝組の役者さんのお話、六本木族って何?とか、星さんがあっさり引退を決めた理由(ほんと、普通にお上手でしたが)、藤木さんがこの映画への出演が決まるまで(ジャズ喫茶で歌っているところへ山際監督が観にきたり、などなど)のエピソードなど、楽しく伺うことができました。

以前、松竹大谷図書館で「踊りたい夜」か何か。。。藤木さんと輝雄さんの松竹の共演作の資料を読んでいたときに、歌手をやめて役者になった経緯を、当時の若い藤木さんが「自分の唄いたい歌とちがったんだ」ってお話をされている記事がスクラップされていたんですが、今回のトークショーでご本人からそのお話を聞くことができたりして、それが私的にはとっても印象深いものでありました。

篠田正浩監督「はなれ瞽女おりん」

たくましさとやるせなさ。 

 

はなれ瞽女おりん [東宝DVD名作セレクション]
 

  

【映画についての備忘録その47】

篠田正浩監督×岩下志麻主演「はなれ瞽女(ごぜ)おりん」(1977年)

 

雪深い福井県・小浜の海沿いの今にも粗末な小屋の中。小さな女の子・おりんが膝を抱えて座り、大人達が囲んでいる。おりんの母親は波にさらわれたのか、貧しい生活の中で盲目の娘を育てることをあきらめたのか、姿を消してしまった。おりんをどうしてやるべきかと思案していると、富山の薬売り・斎藤が顔を出した。大人達におりんを頼まれた斎藤(浜村純)は、高田の瞽女屋敷のおかみ・テルヨ(奈良岡朋子)に預けることにする。

テルヨのもとで三味線や唄を習い瞽女となったおりん(岩下志麻)は、祝儀の場や宴席などにもテルヨ達と出るようになる。そんな折、宴席の場にいた男と関係をもったことから瞽女屋敷を出され、はなれ瞽女となってしまったおりん。一人歩くおりんは、ある山の中で石切場での仕事が終わって山を下り、下駄職人になるという鶴川という男と一緒になり、二人のあてどない旅が始まる―

 

新文芸坐の「清純、華麗、妖艶 デビュー60年 女優・岩下志麻 さまざまな貌で魅せる」特集で鑑賞。私、新文芸坐初上陸であります。初日の上映でこの後に志麻さんのトークショーがあるということで、ひょっとしたら小津監督のお話も聞けるのではないかと、トークショー目当てで行ってきました(結局聞けなかったけどwでも、志麻さんめちゃめちゃ凜として美しかったです。)

この日は「心中天網島」と「はなれ瞽女おりん」の二本立て。トークショー目当てだったので作品の事前知識はゼロ。「心中天網島」のほうはストーリーは知らなくても近松門左衛門の”心中物”だってことくらいは分かっていましたが、「はなれ瞽女おりん」にいたっては”瞽女”を何と読むのか、それが何なのかすら分からないw封切り映画だと嫌でもストーリーとか事前に耳に入ってきちゃいますけど、旧作は自分から情報を取りに行かない限りは分からないものが多くて、まっさらな気持ちで観ることができて、それが結構楽しかったりします٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

んで、観てみたらどちらもお話としてはいわゆる“女の情念”のようなものを描いた筋。女のくせにこういうタイプの映画が苦手で、大体、この手のお話はしょうもない男にひっかる女の話で、「なんでこんなクズ男にひっかかるんだよ」って思ってしまって感情が先に進まないのですが(笑)「心中天網島」はまさにそれで、しかも初っ端から前衛的な表現でついていけずσ(^_^;途中から「さっさと心中せい」と思うような状態でした(^-^;)(これは多分人形浄瑠璃で見ても同じ感想になった気がするw)

でも、一方の「はなれ瞽女おりん」のほうはそういうことにはならずwそれは、導入部分から続く印象的な映像とおりんの生きていこうとする逞しさ故。

 

小さなおりんが住まう粗末な家が立つ場所は、冬の日本海の荒波、どんよりとした寒空の下。大正時代を舞台にした映画ですが、自分が日本海を観て育ったせいもあって、それらの風景に懐かしさとかシンパシーとかいうようなものを感じて、これでスーッと映画の世界に入っていけました。

そして、おりんはすぐに斎藤に連れられて高田の瞽女屋敷まで旅することになります。この一連の場面は台詞はなく、吹雪の中海岸を歩いたり、あまりの寒さに泣きそうになりながら斎藤にだっこされたりとか、歩く2人と厳しい自然だけが映し出されるのですが、ここに小さなおりんの生きるのだという必死な思いが感じられます。特に2人で手をつないで歩いているときに斎藤の帽子が風に飛ばされてしまったシーンは印象的で、斎藤は飛んでいった帽子を取りに行くのに少しの間だけおりんの手を離します。その間、斎藤の手を探すおりんの手だけがスクリーンいっぱいに写されるシーンがあって、それだけで、生きる伝手を一瞬見失って不安でいっぱいになっている小さなおりんの気持ちがめちゃめちゃ伝わります。この映画は冬の厳しい自然だけじゃなくて夏の美しい海とか本当にキレイな風景が沢山出てくるのですけど、この映画のなかで私にとって他の何よりも記憶に残ったのは、この時の小さなおりんの手でした(もう、これ書けて8割がた満足してますw)。

 

 

おりんは、テルヨから瞽女は仏様にその身を捧げた立場であることを幾度となく聞かされて育ちます。それはつまり男性と交わることは許されないということ。高田の瞽女屋敷には年上のお姉さん達が何人も住んでいましたが、そのうちの1人が子供を身ごもり、瞽女屋敷から出されたこともありました。瞽女屋敷にいれば立派な家ときちんとした身なり、そして温かい御飯と衣食住に困ることはありませんが、屋敷を出され、一人で旅をすることになる“はなれ瞽女”は寂れたお堂の中で凍えて過ごしたり、ぼろぼろの笠とあちこち破れ、シラミのついた着物、握り飯一つ、そんな生活になります。しかし、少女から女性になったおりんは衝動を抑えることができず、祝儀の場に呼ばれてある屋敷に泊まった夜、夜這いしてきた男を受け入れ、そのことがテルヨに知られ、瞽女屋敷から出されてしまいます。

そこからは名も知れぬ男に身体を許して手引きをつとめてもらいながら門付の旅をしたり、売春のような事をしてお金を手に入れ、生きていきます。住まいがないので、一人寒い御堂の中では凍え死んでしまうと、その晩をともにしてくれる男を必要とする、そんな生活です。それらは平穏とか幸福とかそういうものとは離れたところにあって、言うなれば地を這うような生き方です。ただ、そこにはそうしてでも生きるのだ、というおりんの覚悟みたいなものが見え、そして、おりんはそういう自分を選択している。男に流されて、とかではなくて自分の衝動の結果招いた事態について、自分なりにけりをつけながら生きている。この時代に盲目の女性が一人で生きていくには多分そうするしかないという状況で、そこでしっかりと生きているのです。それは斎藤の手を探した小さなおりんの延長線上に確かにあって、おりんがどう生きていくのかを見てみたいと思え、最後まで引き込まれて見ることができたのでした。

 

鶴川と旅をするようになってからは、信じられる人が傍にいて穏やかな生活へと変わっていきます。鶴川が下駄を作る道具をひくリアカーに乗って、各地の祭りを巡って出店を出す。もう三味線は袋にしまわれて、歌う必要もない。旅の空も明るく晴れた夏の海のイメージです。でまた、鶴川はおりんに自分のことを兄と呼ばせプラトニックの関係であり続けることを望みます。おりんは鶴川を求めるけれど、それには答えない。関係を持ってしまうとこの関係が崩れてしまうから。それが逆に悲劇を引き起こし、鶴川と離ればなれになってしまうのですが、おりんはまたいつか鶴川に会えると信じ、下を向くことなく、また元のはなれ瞽女として旅に出ます。今度は同じはなれ瞽女のおたま(樹木希林)と御堂で一緒になったことをきっかけに旅をしたり(その途中でかつて自分と同じように親を失った盲目の少女が祖母に連れられてくるエピソードなども短い時間ですが強烈に印象に残り、やはりおりんのたくましさと、この時代に盲目の女の子が一人生きていくことの厳しさを感じさせるのでした)。

 

そして鶴川と再会し、また旅をし、そしてまた一人になる。。。盲目の女性が一人で生きていくどうしようもない状況とその中でも生きるのだという意志。映画の最後の一枚の赤い襦袢に、おりんの生きる意志の強さとそれでも免れきれない定めのようなものを感じ、たくましさとやるせなさを最初から最後まで同時に感じ続けた作品で、映画の世界に引き込まれて居続けられたのは、おりんが生きることをあきらめなかったからだ、と思うのでありました。