T’s Line blog-映画についての備忘録-

兼業主婦が仕事と子育ての合間に見た映画などについて、さらにその合間に綴るブログです。ブログタイトルのTは好きな俳優さんのお名前のイニシャルがことごとく「T」なため。LineはTのうちのお一人の主演作、新東宝「地帯シリーズ」から拝借しています。。

篠田正浩監督「はなれ瞽女おりん」

たくましさとやるせなさ。 

 

はなれ瞽女おりん [東宝DVD名作セレクション]
 

  

【映画についての備忘録その47】

篠田正浩監督×岩下志麻主演「はなれ瞽女(ごぜ)おりん」(1977年)

 

雪深い福井県・小浜の海沿いの今にも粗末な小屋の中。小さな女の子・おりんが膝を抱えて座り、大人達が囲んでいる。おりんの母親は波にさらわれたのか、貧しい生活の中で盲目の娘を育てることをあきらめたのか、姿を消してしまった。おりんをどうしてやるべきかと思案していると、富山の薬売り・斎藤が顔を出した。大人達におりんを頼まれた斎藤(浜村純)は、高田の瞽女屋敷のおかみ・テルヨ(奈良岡朋子)に預けることにする。

テルヨのもとで三味線や唄を習い瞽女となったおりん(岩下志麻)は、祝儀の場や宴席などにもテルヨ達と出るようになる。そんな折、宴席の場にいた男と関係をもったことから瞽女屋敷を出され、はなれ瞽女となってしまったおりん。一人歩くおりんは、ある山の中で石切場での仕事が終わって山を下り、下駄職人になるという鶴川という男と一緒になり、二人のあてどない旅が始まる―

 

新文芸坐の「清純、華麗、妖艶 デビュー60年 女優・岩下志麻 さまざまな貌で魅せる」特集で鑑賞。私、新文芸坐初上陸であります。初日の上映でこの後に志麻さんのトークショーがあるということで、ひょっとしたら小津監督のお話も聞けるのではないかと、トークショー目当てで行ってきました(結局聞けなかったけどwでも、志麻さんめちゃめちゃ凜として美しかったです。)

この日は「心中天網島」と「はなれ瞽女おりん」の二本立て。トークショー目当てだったので作品の事前知識はゼロ。「心中天網島」のほうはストーリーは知らなくても近松門左衛門の”心中物”だってことくらいは分かっていましたが、「はなれ瞽女おりん」にいたっては”瞽女”を何と読むのか、それが何なのかすら分からないw封切り映画だと嫌でもストーリーとか事前に耳に入ってきちゃいますけど、旧作は自分から情報を取りに行かない限りは分からないものが多くて、まっさらな気持ちで観ることができて、それが結構楽しかったりします٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

んで、観てみたらどちらもお話としてはいわゆる“女の情念”のようなものを描いた筋。女のくせにこういうタイプの映画が苦手で、大体、この手のお話はしょうもない男にひっかる女の話で、「なんでこんなクズ男にひっかかるんだよ」って思ってしまって感情が先に進まないのですが(笑)「心中天網島」はまさにそれで、しかも初っ端から前衛的な表現でついていけずσ(^_^;途中から「さっさと心中せい」と思うような状態でした(^-^;)(これは多分人形浄瑠璃で見ても同じ感想になった気がするw)

でも、一方の「はなれ瞽女おりん」のほうはそういうことにはならずwそれは、導入部分から続く印象的な映像とおりんの生きていこうとする逞しさ故。

 

小さなおりんが住まう粗末な家が立つ場所は、冬の日本海の荒波、どんよりとした寒空の下。大正時代を舞台にした映画ですが、自分が日本海を観て育ったせいもあって、それらの風景に懐かしさとかシンパシーとかいうようなものを感じて、これでスーッと映画の世界に入っていけました。

そして、おりんはすぐに斎藤に連れられて高田の瞽女屋敷まで旅することになります。この一連の場面は台詞はなく、吹雪の中海岸を歩いたり、あまりの寒さに泣きそうになりながら斎藤にだっこされたりとか、歩く2人と厳しい自然だけが映し出されるのですが、ここに小さなおりんの生きるのだという必死な思いが感じられます。特に2人で手をつないで歩いているときに斎藤の帽子が風に飛ばされてしまったシーンは印象的で、斎藤は飛んでいった帽子を取りに行くのに少しの間だけおりんの手を離します。その間、斎藤の手を探すおりんの手だけがスクリーンいっぱいに写されるシーンがあって、それだけで、生きる伝手を一瞬見失って不安でいっぱいになっている小さなおりんの気持ちがめちゃめちゃ伝わります。この映画は冬の厳しい自然だけじゃなくて夏の美しい海とか本当にキレイな風景が沢山出てくるのですけど、この映画のなかで私にとって他の何よりも記憶に残ったのは、この時の小さなおりんの手でした(もう、これ書けて8割がた満足してますw)。

 

 

おりんは、テルヨから瞽女は仏様にその身を捧げた立場であることを幾度となく聞かされて育ちます。それはつまり男性と交わることは許されないということ。高田の瞽女屋敷には年上のお姉さん達が何人も住んでいましたが、そのうちの1人が子供を身ごもり、瞽女屋敷から出されたこともありました。瞽女屋敷にいれば立派な家ときちんとした身なり、そして温かい御飯と衣食住に困ることはありませんが、屋敷を出され、一人で旅をすることになる“はなれ瞽女”は寂れたお堂の中で凍えて過ごしたり、ぼろぼろの笠とあちこち破れ、シラミのついた着物、握り飯一つ、そんな生活になります。しかし、少女から女性になったおりんは衝動を抑えることができず、祝儀の場に呼ばれてある屋敷に泊まった夜、夜這いしてきた男を受け入れ、そのことがテルヨに知られ、瞽女屋敷から出されてしまいます。

そこからは名も知れぬ男に身体を許して手引きをつとめてもらいながら門付の旅をしたり、売春のような事をしてお金を手に入れ、生きていきます。住まいがないので、一人寒い御堂の中では凍え死んでしまうと、その晩をともにしてくれる男を必要とする、そんな生活です。それらは平穏とか幸福とかそういうものとは離れたところにあって、言うなれば地を這うような生き方です。ただ、そこにはそうしてでも生きるのだ、というおりんの覚悟みたいなものが見え、そして、おりんはそういう自分を選択している。男に流されて、とかではなくて自分の衝動の結果招いた事態について、自分なりにけりをつけながら生きている。この時代に盲目の女性が一人で生きていくには多分そうするしかないという状況で、そこでしっかりと生きているのです。それは斎藤の手を探した小さなおりんの延長線上に確かにあって、おりんがどう生きていくのかを見てみたいと思え、最後まで引き込まれて見ることができたのでした。

 

鶴川と旅をするようになってからは、信じられる人が傍にいて穏やかな生活へと変わっていきます。鶴川が下駄を作る道具をひくリアカーに乗って、各地の祭りを巡って出店を出す。もう三味線は袋にしまわれて、歌う必要もない。旅の空も明るく晴れた夏の海のイメージです。でまた、鶴川はおりんに自分のことを兄と呼ばせプラトニックの関係であり続けることを望みます。おりんは鶴川を求めるけれど、それには答えない。関係を持ってしまうとこの関係が崩れてしまうから。それが逆に悲劇を引き起こし、鶴川と離ればなれになってしまうのですが、おりんはまたいつか鶴川に会えると信じ、下を向くことなく、また元のはなれ瞽女として旅に出ます。今度は同じはなれ瞽女のおたま(樹木希林)と御堂で一緒になったことをきっかけに旅をしたり(その途中でかつて自分と同じように親を失った盲目の少女が祖母に連れられてくるエピソードなども短い時間ですが強烈に印象に残り、やはりおりんのたくましさと、この時代に盲目の女の子が一人生きていくことの厳しさを感じさせるのでした)。

 

そして鶴川と再会し、また旅をし、そしてまた一人になる。。。盲目の女性が一人で生きていくどうしようもない状況とその中でも生きるのだという意志。映画の最後の一枚の赤い襦袢に、おりんの生きる意志の強さとそれでも免れきれない定めのようなものを感じ、たくましさとやるせなさを最初から最後まで同時に感じ続けた作品で、映画の世界に引き込まれて居続けられたのは、おりんが生きることをあきらめなかったからだ、と思うのでありました。