T’s Line blog-映画についての備忘録-

兼業主婦が仕事と子育ての合間に見た映画などについて、さらにその合間に綴るブログです。ブログタイトルのTは好きな俳優さんのお名前のイニシャルがことごとく「T」なため。LineはTのうちのお一人の主演作、新東宝「地帯シリーズ」から拝借しています。。

小津安二郎監督「秋日和」

少しの寂しさと幸福感。時間がたつほど響く余韻

 

 

 

【映画についての備忘録その39】

小津安二郎監督×原節子主演「秋日和」(1960年)

 

亡友・三輪の七回忌に集まった間宮(佐分利信)、田口(中村伸郎)、平山(北龍二)。未亡人の秋子(原節子)は未だに美しく、娘のアヤ子(司葉子)も24歳となり、美しく育っていた。三人はアヤ子にいいお婿さんを探そうとあれこれ世話を焼くことにする。しかし、母を心配するアヤ子には結婚はまだ先のことのように思え、父の友人達の持ってくる結婚話にも会わずに断るという具合。

ある日、間宮の会社に亡父の残したパイプを届けにきたアヤ子は、以前、間宮にお見合いの話しを持ちかけられて断った間宮の部下、後藤(佐田啓二)を紹介される。後藤はアヤ子の会社に勤める杉山(渡辺文雄)と大学の同窓だった。

また別の日、間宮は喫茶店で、杉山や後藤と一緒にいるアヤ子を見た。間宮は二人がお互いに好き合っていると感じる。ゴルフ場で田口と平山にその事を話すと、秋子を思いやってアヤ子は結婚しないのだろうという結論。そこで、まずは秋子を結婚させ、その後にアヤ子を、ということに。

秋子の結婚相手の候補は、同じくやもめの平山。一度はとまどった平山だったが、息子は案外乗り気なものだから、平山もまんざらではなくなり、再婚話を進めようと田口は秋子を訪ねる。しかし、田口は夫への思いをたちがたい秋子を前に再婚の話を切り出すことはできなかった。 

ところが、ちょっとした行き違いから、アヤ子は秋子が平山と再婚するものだと早合点して、怒り心頭。アヤ子から相談された親友の百合(岡田茉莉子)も間宮、田口、平山の3人に詰め寄るが、事情を知った百合は秋子と平山の再婚話に賛成して・・・。

 

 

U-NEXTの配信で観ました。小津作品5作目。これを観る直前に少し「秋刀魚の味」を見返していて、そのままの流れでおすすめされた本作を鑑賞。ということで、「あー、お友達の皆さんそのままだ!」とか「平山違いだけど平山の家が一緒だ!」とか「ここは息子夫婦の家だった団地だw」とか「男やもめの役名は平山なのか」とか「秋刀魚の味」との細かい共通点にクスクスしながら、小津監督の世界を楽しみました。

 

秋刀魚の味」は父親が娘を送り出す話でしたが、こちらは母が娘を送り出すお話。で、やっぱり、小津作品、おじさん達の思い出話やらしょうもない会話だったり、親子で食事行ったり喧嘩したり、夫婦で言い合いながらなんだかんだでお互い仲良かったり、なんていういつの時代にもありそうな、なんでもない風景の連なりでお話がすすみ、そして、見出しの通りで、少しの寂しさと幸福感でもって映画終了。

 

何か飛び抜けたエピソード、ということよりも、登場人物の何気ない会話から互いへの暖かい情を感じ、それがストーリーを繋いでいきます。

 

例えば間宮夫妻と田口夫妻。両夫婦とも、現代っ子(当時)で親にちょっと口答えしてみたりする娘や息子を心配したり、お互い諦めながら夫婦ってのはやってくものだ、なんてことを言い合ったり(笑)そんなやりとりに夫婦の重ねてきた時間が垣間見えます。

間宮と田口は学生時代に薬局の娘だった秋子の美しさに惹かれて、元気なのに風邪薬を買いに行ったりしていたらしい。で、結局秋子は三輪と結婚して、二人はそれぞれ今の奧さんをもらうわけですが、どちらの奧さんも夫が昔秋子さんに惚れていた、ということは重々承知の様子。間宮の家で奧さん同士、そんなことを話ながら、顔を出した夫をからかいつつも、秋子とアヤ子のことは気にかけていたり。こういうのって、旦那さんへの信頼の積み重ねがあるからだよなぁ、って思えたり。

 

そして、秋子とアヤ子の母娘は、はっきりと言葉にしなくてもお互いへの思いやりがその行動に感じ取れます。「結婚なんてまだする気がない」「好きな人ができたときには言うわ」なんて言いながら、それは母を1人にしてしまうことを1番心配しているから。そしてそれを感じて、娘にそれとなく結婚を意識させようとするかのように、2人で買い物や食事に出かけながら「アヤ子が結婚したらこんなこともできないわね」なんて話をする秋子。平山との再婚話の誤解から本気で喧嘩してしまうのも、優しく互いを気遣ってきたからこそ。

一緒に食事したり買い物したりする二人は、今なら友達親子なんて言い方になるのかもしれませんが、もっと互いを尊重していて、それでいて娘は母の母としての側面に甘え、母も娘が離れていくことを寂しいと思いながらも、そうでなければならないと分かっていて、そのバランスがとても素敵です(大学から親元を遠く離れ、母とこんな時間をもったことがないまま別れることになった私としてはとてもうらやましいです) 。そしてこの関係の終わりに用意された、アヤ子の結婚前に最後に二人で出かけた温泉旅行でゆで小豆を食べながら向かい合う二人のシーンは、台詞以上に、二人の心情を伝える空気が、強く印象に残ります。

 

結婚式の終わったその日、娘の旅立ちをうれしく思う気持ちとやはりどうしてもそこに同居している寂しさを、アヤ子のいなくなった部屋で一人眠りにつこうとする秋子の姿にこめたラストシーン。この後、いつもの変わらない毎日にアヤ子だけがいなくなっている日々が始まるのだということを感じさせて、ふっと映画は終わります。この何でもないシーンの中にみえる秋子の幸福感と寂しさが、映画を観終わったそのあと、もうこれを書いている時点では観てから三日ほどたっているのですが、それでもなお思い返して余韻を残す、そんな素敵な映画でした。

 

(佐田さんの好青年ぶりとか、茉莉子さんの現代っ子らしいさばさばした感じも素敵でありました♪)

 

【映画本編とは別のところの備忘録】

きっと小津作品に遅れて出会った人たちがみんな通る道なのかな、と思うところに5作目にして行き着きました。

本人達の意志そっちのけでおじさん達が結婚話をすすめちゃう本筋は、自分の世代からみると完全に別の時代。そして、間宮たち3人は50代になったくらいかなー、という年齢だと思いますが、東京近郊でゆったり暮らせる大きな家に住んでいたり、突然会社にやってくる友人達と応接室で話したり、と今とは違う緩やかな時間の流れを感じます。一方で、母娘二人になってしまった秋子とアヤ子は団地の一室に慎ましやかに暮らしています。高度経済成長期の変わりつつある時代の中で小津安二郎監督の切り取った当時の日常や空気感。このあとの時代、進む核家族化、都心へ集中する人口、恋愛結婚、満員電車の殺伐とした風景…もっと長く生きて映画を撮っていたらどんな風に小津監督は切り取っていたのだろう?もし今の時代に映画を撮ったらどんな作品になっていたのだろう?どんな風に普通の人たちへ視線を向けてくれたのだろう、そんなことをふと思った、「秋日和」の鑑賞後でした。