T’s Line blog-映画についての備忘録-

兼業主婦が仕事と子育ての合間に見た映画などについて、さらにその合間に綴るブログです。ブログタイトルのTは好きな俳優さんのお名前のイニシャルがことごとく「T」なため。LineはTのうちのお一人の主演作、新東宝「地帯シリーズ」から拝借しています。。

高瀬将嗣監督「カスリコ」

渋い俳優陣で、最後まで見せる。

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【映画についての備忘録その59】高瀬将嗣監督×石橋保主演「カスリコ」(2018年)

 

昭和40年代、高知。賭博「手本引き」にのめり込み破滅した岡田吾一(石橋保)は、高知一と言われた自身の料理屋を手放し、妻子を妻の故郷に帰し、途方に暮れていた。家も金もなく、空腹に耐えかねて神社で倒れていたところを、昔気質のヤクザ 荒木(宅麻伸)に助けられ、”カスリコ”の仕事を紹介される。カスリコとは、賭場で客の世話や使い走りをして、僅かな金をめぐんでもらう仕事だ。

そこは、かつて自分が客として、大金をかけて入り浸っていた場所。仕事も住む場所もない、しかし、いつかはまた妻子とともに暮らしたいと願う吾一は、自身のプライドも捨て、カスリコとして働きはじめる―。

 

 

1960年代の映画の感想でほぼ埋め尽くされている当ブログですが、ついに、2018年製作の映画の感想を書くときがやってきましたw2018年にこの映画の舞台・高知県で初めて上映され、2019年6月22日に渋谷(ユーロスペース)にやってきました。しかし、昭和40年代を舞台にした、モノクロで撮られた映画です。

で、なんでこの感想を書くかっていうと、このブログのタイトル“T”。ブログの紹介文「好きな俳優さんのお名前のイニシャルがことごとくT」と書いていますが、そのT、石橋保さんも含まれておりまして(輝雄さんの感想に圧倒的に偏ってますけど!)(・∀・) 中学生の時から長らくファンをやっていて、浮き沈みを熱かったりぬるかったりしながらwその姿を追っております。その保っちゃん(すみません、勝手にそう呼んでますw)の、久しぶりに、仁俠ものじゃない(賭博の話だけどかたぎさんです)、そして、味のある役者さんたちを揃えた、主演映画。殺陣師として有名で沢山の作品に関わってこられた高瀬監督というのも興味深く、そして、モノクロで撮られる、しかも高知が舞台とか、なんやかんやと興味をひかれ、行ってきた次第。

 

映画はあらすじの通り、賭場のシーンが多く、賭博を巡っての人の生き様が描かれます。なんて、大層な書き方してますが、ようは賭け事で身を持ち崩した男の話。一度は立ち直りまっとうに生きようとし、しかし、その最後はやはりなけなしの金を一か八かにかける。妻目線でみれば、最悪な夫です(^◇^;)たぶん、これを見て「こんな風に生きてみたい」とか「こんな夫がいい」なんて思う女性は皆無でしょう(いや、いるかもな、人の趣味は色々だ)。

 

で、まぁ、そんなストーリーなので、正直、物語や登場人物に何かしら感情移入したり、というようなことはなし。ただ、腕と個性のある俳優陣の演技と、高瀬監督の演出にひっぱられ、最後までしっかり見ることのできる作品でした。最近の実写邦画のイメージはラブストーリーか、もしくはやたらメッセージ性をもったりだとかそういう作品が持てはやされているような気がしますが、そういうところとは反対側にあって、一人の男の生き様をみてくれ、という、ただそれだけ(褒め言葉として)の映画。変に意味を持たせたりしていない。こんな映画も時にはよいもので。

 

保っちゃんは、カスリコとして働きだす吾一を、プライドの行き場を失って途方に暮れているだけの男ではなくて、繁盛店を切り盛りしていたその素質―気遣いの細やかさや客を引き付ける人間的な魅力―をその演技から垣間見せてくれます。それが、この映画のクライマックスとなる、伝説の賭博師・源三(高橋長英)との1対1で勝負する場面での、吾一の凄みに納得感をもたせ、その展開に無理なく見ている側を誘っていきます。

 

荒木役の宅麻伸さんは、私的にはどっちかっていうとエリート官僚みたいなイメージが強いのですが、昔気質のヤクザがはまっていました。物静かで、身内でも何でもない吾一に仕事を世話してやる優しさと、それでいて他者を易々とは寄せ付けない迫力や威圧感を感じさせます。

 

そして高橋長英さん。河原で吾一と昔話をする穏やかなおじいさん、といった風とクライマックスの賭場のシーンでの賭博師としての鋭さ。特に賭場のシーンは吾一と源三は一切目を合わせない、言葉も交わさないのですが、その空間は特別な空気が漂います。

 

カスリコ仲間の山根和馬さんとか、賭場の客の西山浩司さん、小市慢太郎さん、賭場のぼんぼり(運営してる人)の中村育二さん、みなさん、それぞれの持ち場で、それぞれの人生を感じさせてくれる唸りたくなるような演技でした。

 

そして、高瀬監督は、アクションのシーンはないのですが、その代わり(!?)賭博のシーンをテンポ良く演出されていました。映画で取り上げられた“手本引き”という博打、サイコロの“丁か半か”ってやってるのより、かなり地味なのですが、映画のあとのトークショーで、場面展開とかアクションシーンと同じ手法で撮った(場面の切り替え方とか)とお話しさされていて、とても納得なのでした。よく分からない博打のシーンを面白く見せるのってなかなか難しいと思うんです(007シリーズが大好きなので、実感としてね)。でもね、そこもきちんと、飽きずに観ることのできる作品でした。

 

と、いうわけで、初の新作邦画の備忘録は、職人のような俳優陣と監督による渋い映画。女性視点での共感だとかそういうのは一切排した、だらしない男の話。ただ、最後にそんな人生を自分らしいと振り返る吾一に、男の人の究極の理想ってこういう感じなのかな、とか想像をしてみたり。盗んだバイクで走り出す歌が、実際にそんなことをする人は少ないはずなのに、いつまでもその世代の人達に支持されているって、そういうところにあるのかな、なんて。・・・嫁さんの立場からしたらとんでもないけどねw

 

【おまけ】

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トークイベントもありました

 

映画のあとは高瀬監督、保っちゃん、宅麻さん、西山さんのトークイベントも。高瀬監督はとってもジェントルマンの雰囲気。また、ワルオのイメージがやっぱり強烈な西山さんなのですが、演技に対する真摯な向き合い方など、とても印象的なお話。

そして、保っちゃんファンとしては、ご自身の境遇(大手事務所でデビューからしばらくの恵まれた時期と事務所をやめて役者の仕事が途絶えてしまった時期、そして今またこうして主演映画をとるにいたる変化)と吾一の境遇に自身を重ねたという個人的な部分のお話を聞けたこともまた貴重でした。

 

上映後、「カスリコ」ラベル(トップ画像のポスターと同じラベル)のホッピーと銀座にある高知のアンテナショップのサービス券(ここの二階の高知の美味しいものが食べられるレストラン“おきゃく”はめちゃオススメです!)をお土産でもらって、ホッピーの試飲まであって(試飲っていっても、大きいカップになみなみと注がれてましたw)一度の鑑賞でいっぱい美味しい思いをした「カスリコ」の鑑賞でした。

 

 

 

大庭秀雄監督「稲妻」

誰かのどこかに、自分をみる。

  

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【映画についての備忘録その58】大庭秀雄監督×倍賞千恵子主演「稲妻」(1967年)

 

東京の下町の雑貨屋の三女清子(倍賞千恵子)は大企業で電話の交換手として働いているが、恋人の川口にある日別れを告げられる。その原因は、清子の家族―長女の逢子(稲垣美穂子)、次女の光子(浜木綿子)、兄の嘉助(柳沢真一)とそれぞれ、父が違っているという、複雑な家庭環境のせいだった。

逢子は両国でパン屋を営む綱吉(藤田まこと)との縁談を清子に持ちかける。綱吉は逢子の夫・竜吉(穂積隆信)と温泉ホテルを始めようとしているという、腕のある商売人である。そんな折、光子の夫・呂平(田口計)が交通事故で急死する。葬式の夜に弔問に訪れた綱吉の羽振りのよさに、逢子や竜吉だけでなく、母のせい(望月優子)も、悲しみにくれる光子をそっちのけで綱吉を迎えるのを見て、清子は綱吉にも家族にも嫌な気分になる。

そして、呂平の保険金が下り、呂平の抱えた借金の返済を終えた光子は神田で小さな喫茶店を開くことを考えていた。光子はその世話を綱吉に見てもらううちに男女の仲となる。それ以前には姉の逢子と関係を持っていた綱吉。ある日、開店前の光子の喫茶店を訪れた清子。そこで、綱吉と光子、逢子が鉢合わせとなり、大喧嘩になるのだった―

 

 

シネマヴェーラ渋谷の「欲望のディスクール」特集で鑑賞しました。ちょうど会社の送別会があって、時短勤務者、時間通り切り上げて、送別会までの時間を映画を観て過ごすことにしました(なかなか贅沢な気分)。大庭秀雄監督作品、初鑑賞(「君の名は」をまだ観ていないのです!)。映画は清子とせいの親子関係、三人姉妹の関係を中心とした女性の物語。三人姉妹と母親は各々性格が違っていて、観る人が4人のどこかの部分に自分に近いものをみるのではないかな、と思うような映画でした。男性陣は物語を動かす役目をおっている綱吉ですら、添え物的な感じです。

 

逢子は元は水商売をやっていたようで、自分の女としての武器をいかして、いい男(=金を持っている男)を利用しよう、というような女性。夫の稼ぎがなくなると見ると、あっさり見限って綱吉に乗り換える。上の学校へは行かず、働いて清子の学費を出してやったりもしてくれたようですが、そういう”女”としての生き方を自ら選んでいるようで、どこか自信がなく、その生き方に卑屈になっていて、清子へも光子へも劣等感を抱いているように見えます。

 

光子は内気な女性で、あまりはっきりとものを言うことをしませんが、夫・呂平が昔、姉の馴染みの客であったことを結婚した後でも気にとめていて、何となく二人の間を疑っています。それでいて、呂平の帰りが遅くて晩ご飯を一緒に食べられない、となると寂しいと思ってしまう。呂平が死んだ後に何日も泣き続け、突如として愛人が現れても呂平の墓参りに行く。呂平の保険金がおりると、それで喫茶店を開業し、自立していきて行くかと思いきや、開業の支援をしてくれた綱吉と男女の仲になり、逢子と取っ組み合いの喧嘩になる。一人では寂しい、男がいないと生きていけない。ある意味とても女性らしい女性です。

 

母のせいは父親の全員違う4人の子供を生んで、戦中戦後、雑貨店を営みながら必死の思いで子育てをしてきた女性。ただ、苦労話なんて殆どしなくて、子供達にも「そういうところはお父さんにそっくりだ」とかしれっと言っちゃう。ものすごい人生を生きてきたはずなんだけど、えらくサバサバしている。女に振り切っちゃったから父親違いで4人生んでるんだろうに、母親らしさ満点で、あれこれ問題を抱える我が子のことを本当に心配している愛情が伝わってきます。

 

清子はその名の通りというか、清廉さを感じる女の子。映画の冒頭、私生児であることを理由に恋人に振られますが、彼氏に文句も言わず、悔し涙を我慢して仕事に戻るシーンで、彼女の負けん気の強さとか、自立心を強く感じます。男に頼らなくても一人で生きていけるようにとタイピストの資格の勉強をはじめ、男に振り回される姉二人と、いつまでも定職につかない兄、仕事が上手くいかなくて飲んだくれる義兄とか、自分を取り巻く家族のだらしない面に“毒気にあてられて自分までダメになりそうだ”と家を出て行くことを決めます。

 

と、4人の女たちはそれぞれ、はっきりとした個性があります。逢子の自信のなさ、誰かに側にいてもらわないとダメな光子、清子の一人で生きていけるようになりたいという自立心…。だから、この映画を観た女の人は、特定の誰かに、というよりも、それぞれのどこかに、自分に似た部分をみつけるのではないかと思います(せいさんについて書いてないのは、生き方が突飛でカッコよすぎたから)。それ故に、この姉妹・親子をめぐる、作り方によってはただの昼ドラ的なドロドロな物語になりうる出来事が、遠く離れたところで展開される見世物ではなくて、近くで起きている家族の物語として、観客を映画に向き合わせます。

 

なかでも、清子は家族環境を除けば普通の女の子で、スキルを身に付けたいとか、今いる家を出て新しい生活をしよう、とか、多くの若い子、あるいは、おばちゃん達の若かった頃(私もなー)の姿をうつしているように思います。だからなのか、母親との喧嘩の場面はズシンときます。

ゴタゴタしている家に嫌気がさして独り暮らしを始めるべく、その引っ越しの当日、清子とせいは喧嘩になります。家族がそれぞれ問題を抱えている時に見捨てるように出て行くことを母に責められた清子は父親が全員違うということの引け目を感じ続けてきた、と返します。それでも一生懸命育ててきたんだ、と言われると「産んでほしいなんて頼んでない」。それに対して、せいは「子供が出来たら生まなければいけない時代だったんだ!」と。同じ方向(カメラ側に向かって)に視線を落として目を合わせない二人をとらえる絵がとても印象的で、そして、いつもサバサバしているせいが、この喧嘩で涙を流します。

 

問題を抱える親子関係を描く作品でこういう言い合いは定番のようなものですが、清子はすれて、家族にあたって、という不良のように生きてる子ではない。彼女なりにキチンと生きていこうとして、そういう中でぶち当たる、思いつまった心の内、その結果の喧嘩のシーンです。自分ではどうしようもない環境に「どうして生まれてきちゃったかなぁ」って思う、というのは、みんな(だと思うんだけどw)どこかで通る道。それが、他の兄妹ではなくて、清子という、きっと多くの女性が共感できるであろう普通の人生を生きようとする女の子が言葉にすることで、そして、視線をあわせて面と向かって言えないけれど、その場を逃げ出すこともなく語ることで、愛情ある親子の、互いを思いあいながら、それでも言ってしまうという心情の辛さが見えて、このシーンが”よくある場面”ではなくて、この映画の特別なシーンとして、そして、どの親子にも起こりうることとして見せられたようで、ズシンときたのだと思います。

 

と、いうわけで、空いた時間に観られる映画、という理由で観てきた「稲妻」。そんなきっかけでまたも素敵な映画を観ることができて、他の大庭監督の作品も機会を見つけてみてみたいな、と思ったのでした(あと、せい役の望月優子さんも素敵な女優さんだったので、こちらもまた気にしてチェックしていきたい)。

 

そうそう、本作は1967年の作品なのにまさかのモノクロ映画。倍賞千恵子さんと輝雄さんの共演作で1964年に撮影されている「恋人よ」という作品があって(町工場の工員という、輝雄さんのフィルモグラフィー的にはたぶんレアな役!)、はたしてこちらはカラーなのか、モノクロなのか気になって、また図書館で調べなきゃだわ、と思った鑑賞後でもありましたw(結局、話がそこに落ち着くのかw)

本多猪四郎監督「ゴジラ」

これは戦争映画だ。

 

 

【映画についての備忘録その57】本多猪四郎監督×宝田明主演「ゴジラ」(1954年)

 

太平洋の沖合いで船舶が沈没する事件が相次ぐ。大戸島の漁船が生存者を救出したとの情報が入るが、その漁船も消息をたち、若い漁師・政治だけが大戸島へと生きて流れ着く。そして、島を取材に訪れた新聞記者に、漁船が沈没した原因が巨大生物だったと語った。にわかには信じがたかったが、ある夜、その巨大生物が島を襲い、木はなぎ倒され、家屋や家畜はつぶされ、そして、政治と母親はつぶれた家の下敷きとなり、政治の家族は弟の新吉だけが生き残ったのだった。

この大戸島の被害に調査団が結成され、古生物学者の山根博士(志村喬)や助手で娘の恵美子(河内桃子)、その恋人でサルベージ機関の所長・尾形(宝田明)らで結成された調査団が大戸島に派遣される。この生物の通ったあとには三葉虫の死骸が落ちていて、足跡からは放射能が検知される。そして、彼らの前にその巨大生物ーゴジラが姿を現す。ゴジラは、密かに生き残っていた太古の生物が、繰り返される水爆実験の影響で目を覚ましたものだったのだ。

ゴジラの強大な力に人間たちは成すすべもなく、東京に上陸したゴジラは街を火の海に変えていく。その頃、山根博士の愛弟子である科学者の芹沢(平田昭彦)は、ゴジラを消滅させうる強力な“武器”を完成させていた―

 

 

ハリウッド版のゴジラがやってきて話題になっているタイミングで、初代のゴジラAmazon Primeビデオで初鑑賞しました。あの有名な音楽、ゴジラの咆哮、もう、オープニングタイトルからワクワクです。STAR WARSとかジョーズなんかも曲聴いただけでドキドキしますけど、それよりもさらに20年以上昔の日本映画。ほんと、すごい(ボキャブラリー貧しすぎw)。

 

私、子供の頃にそもそも映画に親しむ環境になかったため、ゴジラとか怪獣映画の類を観て育った記憶は皆無です。1970年代後半~1980年代前半にゴジラシリーズの制作がされていないようで、怪獣映画を観る適齢期(?)にそれらが作られていなかった、というのも大きいかもしれません(キン消しとか集める子供だったので、ドンピシャでやってたら観てたんじゃないかな、っていう)。

と、いうわけで、私にとっての怪獣映画は大人になってから観た「シン・ゴジラ」と「ゴジラ対へドラ」(これは柴俊夫さんめあてw)の二つ。それ以外で怪獣映画として平成ガメラシリーズの「ガメラ2」(これは石橋保さん目当てw)を観ただけ、という非常に乏しい鑑賞暦しかなくて、”他のゴジラ映画と比べて”、とか”怪獣映画としてどうか”、とか言う知識に基づいた感想はほぼなし。で、そういう人間が観た「ゴジラ」第1作の感想は、「こりゃ、戦争映画だわ」なのでした。

 

なぜそう感じたのかと言えば、第二次世界大戦の傷跡の生々しさ、強敵に立ち向かう集団としての人達の描かれ方、そして、志村喬さんをはじめとするゴジラに立ち向かう人の演技、そういった要素によるものでした。

 

特に大戦の傷跡の生々しさは、この時代でなければ描けないものだと感じました。ゴジラが東京に上陸するのでは、という段階での「やっと長崎から逃れてきたのに、また疎開しなければならないのか」という通勤電車での会話、銀座の松坂屋の下で迫り来るゴジラを見上げ、怯えながら「お父ちゃまの側に行くのよ」という母親とそんな母にしがみつく子供たち。死や戦争というものがすぐそばにあることが伝わってきて、怪獣映画というファンタジーを見ているというよりも、リアリティーのある物語を見たという、そういう印象が強く残ったのでした。

 

そして、海上保安庁自衛隊の、ゴジラに立ち向かって戦う人間たちの装備の貧弱さと、それに比較してのゴジラの強敵感。アナログ(って表現でいいのか?)な兵器が、「シン・ゴジラ」やら所謂SF映画を見たときのそれと比べて格段に「絶対に敵わない」というような絶望感を感じさせます。これは今の時代から観ているから感じる感覚なのかもしれませんが、なんというか、太平洋戦争の戦況が悪化していくなかで、アメリカに玉砕覚悟で向かっていく、そんな危うさを思わせるのです。さらに、ゴジラの被害にあって続々と病院に運ばれてくる人たち。戦うことのできない人達のなすすべのない―意識を失った母親と病院で離ればなれになり泣きじゃくる女の子、被害を受けた人の多さに治療が追いつかない病院―疲弊感。子供のための作品であれば、大人目線では「でも、最後は勝てるよね」みたいな流れを感じるものですが、ゴジラを前にした時の人々の無力感がヒシヒシと伝わってきて、やはりこれも、現実の戦争で勝ち続ける事などあり得ないということ、そして戦闘には華やかなヒーローが生まれるだけではなくて犠牲者もいるのだという、そういうリアルな戦いの厳しい物語を見せられているような感覚になったのでした。

 

最後に、山根博士役の志村喬さんと芹沢博士役の平田昭彦さんの演技(宝田明さんが主役なんですがσ(^_^;)。あくまでメインはゴジラ(主役はゴジラ、というのが正しいのかw)なわけですが、生物学者としての山根博士のゴジラという”生物”に対する思慮、芹沢博士の科学者としての自分が生み出したものへの責任と、それを使用することへの覚悟。スクリーンから二人の演技の真摯さが伝わってきて、ゴジラという脅威に現実味が与えられ、この映画を怪獣映画ではなくて、人の物語―つまりは戦争映画のように―にしているように思えたのでした。

 

と、なんだか深い感じの感想になってしまいましたがwもちろん、なかなか全容を現さないゴジラにどきどきさせられたり(「ジョーズ」の煽られ方はこれだな、と思いました)とか、アトラクション的な楽しみ方もたっぷり。当時、大人も子供も巻き込んで大ヒットしたのも、さもありなん、なのでした。そして、この映画、結局主役の尾形は正論言って右往左往しているだけで、「吸血鬼ゴケミドロ」の杉坂さんを思い出し、ヒーローって案外そういうものなのか?と思ったりしたことも付け加えておきますw

 

 

渡辺邦男監督「明治天皇と日露大戦争」

東宝の必読書(!?) 大作の熱意と時代の求めたもの。

 

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【映画についての備忘録その56】渡辺邦男監督×嵐寛寿郎主演「明治天皇と日露大戦争
」(1957年)

 

1904年ーロシアの極東侵略が進むなか、日本は明治天皇嵐寛寿郎)の意志のもと、開戦の道をさけ外交交渉での解決を模索する。しかし、一向に交渉をすすめる態度を見せないロシアに、日本国内も開戦の機運が高まる。そして、再交渉を打診するも回答のないロシアに、ついに明治天皇は開戦を決意。日露戦争が開戦される―

 

国立映画アーカイブ初上陸。新東宝という会社に興味をもってしまったからにはいつかは観ておかねばなるまい!と思っていた本作。去年上映されたときには観に行けなかったのですが、アンコール上映がされるということで、息子の習い事はパパにお願いして、行ってきました(その後に資料室&図書室にも寄りました(・∀・))!

 

お話の詳細は、日露戦争の開戦から終戦までを追ったものなので、あらためて書くまでもないので端折りますw

今作は経営が傾いていた新東宝大蔵貢体制になって、社長自ら製作総指揮をとった、大作&大ヒット作。これで新東宝を延命させたという作品です。新東宝の歴史の中では重要な作品(だと思う)で、吉田輝雄を入口に旧作邦画の世界に引き込まれた者としては、チェックしておかねばなりませんw

 

映画は、なるほどたしかに!という大作でした。技術とか予算とか時代的な限界はありましたが、それでも、大勢のエキストラを使い、日露戦争に突入する前の大衆の盛り上がり、旅順要塞攻略のための陸軍の戦闘の迫力、203高地の激闘、対馬沖でのバルチック艦隊との海戦(ミニチュアの特撮感は否めませんでしたが)などなど、人の熱気や決断と作戦の緊迫感、大画面に展開する激闘の迫力、そういったものが十分に伝わり、魅せるシーンは盛り沢山。

 

構成は細かい作戦の意味なんかは省かれていて、私にとっての日露戦争モノは「坂の上の雲」(NHK)なのですが、たぶん、これを見てなくて歴史的な経緯とかも分かっていなかったら、陸軍と海軍の戦いがどうつながっているのか、なぜ反目しあうのか、結構混乱しそうな作りです。本作は戦後12年で作成された映画なので、たぶん、当時の観客はそういった部分の知識というのはあるはずで、だから、省かれていたのでしょう。その分、明治天皇乃木希典東郷平八郎といった、国の命運を握っていた人物の苦悩や人間性みたいな部分が物語を紡いでいました。

 

特に明治天皇役のアラカンさんの存在感がすごい。Wikiによると日本で天皇役を演じたのはアラカンさんがお初だそう。威厳があってそれでいて偉ぶらず、部下たる大将達を信じ、戦場の兵士の苦境を思って真夏でも冬服の軍服で過ごす。皇居の庭で家族や恋人に別れをつげる若い兵士たちを見ながら、その辛さと苦しさを受け止める。戦死者が増えるにつれ「どうしても勝たなければ申し訳が立たない」という心情を訴える台詞の、こちらを納得させる重み。現人神であった天皇陛下を演じるというのは、この時代においてはものすごいプレッシャーと、そして危険(右からも左から脅迫とか来そうですし(^-^;))が伴ったんじゃないかと思いますが、アラカンさんの明治天皇、きっと誰からも文句が出なかったんではなかろうか、と思いました。

 

 乃木大将役の林寛さんも、実質主役か?ってくらいの存在感。息子二人を前線で失う話は有名ですが、死ぬ覚悟でいる次男・保典(高島忠夫さん)と陣中で向かい合ってご飯を食べるシーンは、国を守るのだという忠義心と親としての情愛の深さを感じさせらるシーンで、名演に劇場でうるうるしてしまっていたのでありました。

 

脇には保典役の高島さん以外にも、天知さん、丹波さん、宇津井さん、と新東宝でデビューした、当時は若手の皆さんがあちこちに。そのほか、たくさんのスターさんたち(お名前は知っていても顔と連動しないにわかです、すみません)がたくさんで、そういう部分でも見ていて楽しかったのですが、そのなかで、一番のかっこよさだったのが細川俊夫さん。軍服姿もよく似合い(なお、高島さんはすごい坊ちゃんな感じで兵士には見えませんでしたw)、天皇に静かに従い、その意思を組む、素敵な侍従さん。こりゃ、明治天皇の信頼も厚かったことでしょう!

 

で、見出しについて。

と、いうわけで、にわか新東宝ファン、大蔵貢社長渾身の大作&大ヒット作を観ることができて満足。大作なのは上記の通り。大ヒットって、どのくらいすごいのかって、Wikipediaみると観客動員数2000万人で5人に1人がみたそう。動員数は「千と千尋の神隠し」に抜かれるまで1位だったそうです。それだけのよく出来た作品だったのか、と言われると今観ると「そうでもないなぁ」と思う訳なのですが(まぁ、千と千尋の神隠しもそんな名作か?って思ってますけどw)、この動員数はきっと、敗戦で全てを否定された日本の人達に、明治維新からの歴史を肯定して見せてくれたことによるのではないかと思いました。自分が信じてきたもの、歩んできた歴史、当時精一杯に生きていた人達が、敗戦によってそれらが急に否定される。それはきっと、相当な衝撃だったのではないでしょうか。恐らく教養人を自負しているような人達(今で言うなら意識高い系か)にはこの映画はうけなかったんじゃなかろうかと直感的に思いますが、市井の人達にとっては、つい少し前までの自分達の姿をそこに見、それが当時の人達の気持ちに響き、この結果を生んだのではないか、と。戦後の、こういうものを大きく堂々と語れない空気の中で、サイレントマジョリティの人達が抱えていたもの、つまりは時代の求めたもの、だったのだろうな、と。(そして!おかげで会社が持ち直して、二年後に吉田輝雄がハンサムタワーズにスカウトされる時がくるわけなので、ほんと、この映画に感謝です( ̄∇ ̄))

 

 

【国立映画アーカイブの備忘録】

初上陸の国立映画アーカイブ。前身のフィルムセンターの時代も含め、初めて行って来ました。つか、こうやって古い邦画を観るようになるまで、こんな施設があるなんて知りもしなかったのですが。

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中に入ってすぐの受付で整理券をもらったあとチケットをどうやって買えばいいのかも分からなくて、受付の女性に伺ったり。(まさか、整理券もらってから、上映室に入る前に買うなんて思いもしませんでした。チケットと整理番号一緒に渡すんじゃないのねー!っていう。)映画のあとは展示室で日本映画の歴史に触れ(すでにない戦前、戦中の映画会社の歴史とかハヤブサヒデトの話とか、そしてもちろん、小津監督や清水監督なども)、図書室で2時間ほどキネ旬のバックナンバー(すっごい古いものから開架で触れられるようになっていて、1960年(「爆弾を抱く女怪盗」が1960年の公開なのでw)から順番に、輝雄さんの出演作の記事や新東宝作品を中心にw読み(それでも1962年の2月までしか読めなかった!)、映画文化に触れる楽しい時間でありました!

1960年のキネ旬の記事で映画会社各社の俳優陣について書かれたものがあり、当時のキネ旬偉い方と思われる方が新東宝についての分析をされていて、その中で「女体渦巻島」でデビューしたばかりの輝雄さんについて、「他社に負けない主演ぶりで、今作のように企画と監督が良ければ」といった記述を発見し、ひとり(心の中で)ニヤニヤとしていたのでしたw松竹大谷図書館に続き、またもやすごい場所を知ってしまったなぁ!とこちらの図書室にも通いまくりたいところであります(・∀・)

 

佐藤肇監督「散歩する霊柩車」

夫婦の愛憎劇で結末は予測不可能。

 

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【映画についての備忘録その55】

佐藤肇監督×西村晃主演「散歩する霊柩車」(1964年)

 

小柄な中年のタクシー運転手・麻見弘(西村晃)には、年の離れた妻、すぎ江(春川ますみ)がいる。年下のすぎ江は大柄で豊満な女性で、弘に飽き足らず、夫の仕事中に医師の山越(金子信雄)、初老の会社社長北村(曽我廼家明蝶)、20歳そこそこの若い男・民夫(岡崎二朗)と、浮気を重ねていた。

浮気をめぐって喧嘩の耐えない二人。喧嘩のはてに弘はすぎ江の首をしめてしまう。そしてー弘は毛利(渥美清)という男を霊柩車の運転手として雇い、山越の出席する結婚式、北村の勤める病院とすぎ江を入れた棺桶を乗せて、霊柩車を走らせる。浮気の清算として自殺したのだと、社会的に地位のある二人を強請り、大金をせしめるためにー。

 

 

平成最後での予告通りw令和最初の更新は「散歩する霊柩車」(なんで改元のめでたいタイミングでこういうチョイスになってしまうのか(笑))。佐藤肇監督がホラー映画が得意な監督さんだという事以外は予備知識なし。で、このタイトルとオープニングのおどろおどろしい音楽で、「どんなホラー映画なんだろう」と思って観ていたら、「吸血鬼ゴケミドロ」と同じく予想を裏切られ、映画は夫婦の愛憎を中心にした、物語が二転三転する、サスペンス映画の秀作なのでした。

 

 

その夫婦、西村晃さんと春川ますみさんという組み合わせが絶妙。弘とすぎ江はあきらかにアンバランスで、これだけで”二人が上手くいってない”という印象を受けるには十分。そして、その印象を上書きするように、弘のことを疎んじて自分の若さと奔放さを受け止めてくれる他の男と遊ぶすぎ江と、そんなすぎ江を咎め、喧嘩しながらも惚れていて別れられない弘、という二人のパワーバランスを最初にしっかりと見せられます。だから、こちらは物語の始まりとなる最初の霊柩車の仕掛けからまんまと騙されてしまいます。

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この映画、大金をどう手に入れるかって話なので、こちらが騙されたことに気付いた後は、いずれ二人は仲違いしていくんだろうと思いながら見ていたワケなのですが、喧嘩してはくっつき直すという二人の腐れ縁、夫婦の物語が手を変え品を変え描かれていくので、予想通りの展開に落ち着くのかどうか、どんどん分からなくなっていきます。

 

そして、強請られる側も金子信雄さんが演じていたりするので、見るからに一筋縄ではいかない感じ(お名前は昔から知っていましたが、実は俳優さんとしての姿は「吸血鬼ゴケミドロ」しか観たことありません。が、多分、そういう役者さんだろうなぁ、という雰囲気は感じます)。だから、強請りもほんとに上手くいくのかな?と勘繰りながら観ることになったのですが、こっちもやっぱり予想通りには展開していかなくて、どういう結果になっていくのかますます予測できなくなります。

 

コメディーリリーフなのかと思ってた運転手役の渥美清さんや、単なる遊び相手だと思っていた民夫(岡崎二朗さんはVシネでお見かけしていて…好きな俳優さんがよく出ているのでσ(^_^; 大体昔気質のヤクザ役なのですが(笑)若いときはこんなイケメンさんだったのか!という驚きw)まで、出てくる人物がそれぞれ重要な役割を果たしていて、映画は無駄なく、テンポよく進み、ジェットコースターにでも乗っているような感じで、監督の敷いたレールにしっかりそって、その思惑通りに楽しませてもらったのでありました。

 

そうそう、旧作邦画初心者、「水戸黄門だ!」「め組の頭の奥さんじゃん!」とか、主演のお二人の自分の中でのイメージとの差に新鮮な楽しみも感じられました(善人の代表のような黄門様しか見たことなかった西村晃さんの、まったく違った独特な雰囲気に、母が黄門様が西村晃さんになったときに違和感を口にしたのを思い出したり)。

 

自分基準だとなかなか鑑賞の候補としてたどり着かない作品にもたくさん面白いものがあることをあらためて感じ、旧作邦画の深みにますますハマっていくなぁ、と思った鑑賞後でありました。

佐藤肇監督「吸血鬼ゴケミドロ」

 (細かいところはさておき・・・)予想外に面白かった和製SF映画

あの頃映画 「吸血鬼ゴケミドロ」 [DVD]

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【映画についての備忘録その54】

佐藤肇監督×吉田輝雄主演「吸血鬼ゴケミドロ」(1968年)

 

羽田を飛び立ち伊丹空港へと向かうジェット機に爆弾が仕掛けられているという情報が入った。機長は副操縦士の杉坂(吉田輝雄)とスチュワーデスの朝倉(佐藤友美)に乗客に悟られないように手荷物検査をするように指示する。訝しがりながらも手荷物検査に協力する乗客たちのなかに一人、荷物を持ち込んでいないという男がいた。その男の荷物と思われるものが機内の別の場所から見つかり、中からライフルが発見される。男は寺岡(高英男)といい、彼はかねてよりニュースとなっていた外国大使を暗殺した犯人だった。

ライフルを機長につきつけ、行き先を変更するように要求する寺岡。通信機も破壊し、飛行機は孤立する。そのとき、突然光体と接触し、見知らぬ山中に不時着する。生き残ったのは、杉坂、朝倉、大物政治家の真野(北村英三)、精神科医百武(加藤和夫)、夫をベトナム戦争で亡くし、岩国基地まで遺体を引き取りに行くのだというアメリカ人女性ニール(キャシー・ホーラン)、軍需企業会社の重役徳安(金子信雄)と法子(楠侑子)夫婦、生物学者佐賀(高橋昌也)、自殺志願の青年松宮(山本紀彦)そして、寺岡だった。

他の生存者たちを銃で脅し、朝倉を人質として逃走した寺岡は、山中でオレンジ色に輝くUFOを発見し、取りつかれた様に中に入っていく。すると、寺岡の額が裂け、そこからアメーバ状の宇宙生物ゴケミドロが侵入する。その恐怖に意識を失って倒れてしまった朝倉を見つけ、飛行機へと連れ帰った杉坂。彼女は百武の催眠術により、自分の目撃した光景を語る。機体の外には暗殺者がいて、救援がくるのかどうかも分からず、得体の知れない生物に襲われるかもしれないとう追いつめられた状況に、生き残るために剥き出しのエゴと正義がぶつかる―。

 

平成最後の記事になりそうですが、そんなことは関係ないとばかりに今回の備忘録は「吸血鬼ゴケミドロ」を選んでしまいました(笑)本作と同じ佐藤肇監督の「散歩する霊柩車」を拝見する機会をいただいたのと(これは令和最初の記事になるかも(笑))、ちょうどGoogleさんのクレジットがたまったので、輝雄さんご出演作を何か購入しよう♪と思って、「今年の恋」も「秋刀魚の味」も既に手に入れているしで、「じゃあ、今回はこれ!」ということで購入して久しぶりに観たので書こうかな!ということで。

吸血鬼ゴケミドロ」は輝雄さんファンになりたて(∀)の頃にちょうどAmazon primeビデオで配信されていて、ほぼ知識のないまま観たのですが、高さんのメインビジュアル=DVDジャケ写とタイトルにちょっとなめてかかったら(いや、だって、何も知らなかったらこの要素は子供だましのホラー映画かなって思うよねぇ)、今からだと如何ともしがたい特撮のチープ感とか、設定の細かいつっこみどころはありつつも、なかなか面白い作品で、見終わった後は満足感のあった作品(そしてちょっとヘビー)。カルト映画枠なんだろうけど、ネット上にも沢山のコメントや評価がされてるのも納得、という感じでした。

 

で、この映画の面白さがどこにあったかというと、生き残った者たちによる密室(でもないけど)劇と、予想外にダークな結末(SF要素関係ないじゃんw)。

 

とにかく、乗客がみんな濃すぎ。

ゴケミドロに最初に入られちゃう高英男さんについては、もう、申し分なしw逆にこの人じゃなかったら誰ができるのかと思うくらいゴケミドロに入れらそう感(何それw)満載。

そして”いかにも”な悪徳政治家・真野と、こちらもいかにも出世しか考えてなさそうな悪徳商人・徳安、そして出世のために真野に愛人として差し出された法子、という3人は、もう、サスペンス映画の愛憎劇かっていう、濃い設定。そこらへんの背景は機内の台詞と演技で処理されるんで、自分を出世の道具に使った夫にあてつけのように真野といちゃつく法子とか、もう演技めっちゃ濃い!暑苦しいくらい(^-^;)んでまた、楠侑子さんのエロいこと。真野と徳安の二人はとくに、もともと欲の強い二人、という感じなので、極限の状態に置かれてさらにエゴむき出し。北村英三さんと金子信雄さん(お二人ともこれ以外できちんと拝見したことはないのですが)二人の、すごい演技合戦です。

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濃いw

生物学者佐賀役の高橋昌也さんも、妙に説得力があって、「宇宙生物実在論というのがある。。。」と、取って付けたような学説も、高橋さんがいうと本当にありそうに聞こえてきます。んで、高橋さんは正義の側の人間でありつつ、学者としての探究心で人としての道をはずしてしまったり…という危うさもあって、これがまた高橋さんの書生のようなたたずまいによくあっているのです。

ニール役のキャシー・ホーランさんも英語の台詞回しのよしあしはよく分からないけれどσ(^_^;脆い人物像を最初から感じさせます。

精神科医としての好奇心が前面に出てきてマッドサイエンティストのような趣の百武と、自分のことしか考えてなさそうな青年・松宮はちょっと、この四人が強烈すぎて(笑)割食ってますが、加藤和夫さんも山本紀彦さんもやっぱり濃いです(笑)

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このハンサムがこの距離とか役得だぞ(・◇・)

で、我欲丸出しの真野、安武に対して、ニールは夫をベトナム戦争で亡くしたことで、反戦を叫び、暗殺犯である寺岡を助けてやろうという博愛主義的な人物です。ところが、いざ自分がゴケミドロの犠牲になるようにと真野たちに強要されると、生き残るために杉坂に銃口を向けます。博愛主義とかヒューマニズムとか、大抵の人にとっては“自分は安全圏にいる”という状況でのみ発揮される綺麗事、安っぽいヒューマニズムを掲げているのは、そういう本能を見ないようにしているだけだぞ、みたいな強烈な皮肉を感じさせます。

 

こういう人達に対峙する正義漢が杉坂。…なんですが、彼は正論を言って正しい行動をとりますが、事態を打開する術を持ちません。できることはひたすら救援を信じて待つこと。そのためにも生き残った者たちが協力するべきであると、この個性の強い乗客たちを何とか飛行機にとどめ、まとめようとします。それ以外は、ほんとに何にもできない。スーパーヒーローでも何でもなくて、異常な状態におかれた普通の人です(ただしすごいイケメン)。そして、主人公が普通の人であることも、この映画を見終わった後に見ごたえがあったなぁ、と感じた要因にもなっていて、この映画の結末の、全くもってすっきりしない、終末とか末法とかいうような、どうしようもない事態の絶望感がハッキリと立ち現れるのです(万が一、この備忘録がきっかけで見る人がいた場合のため、詳しくは書かないでおきますw)。

 

細かいところでは、つっこみしながら見たのですが。。。つっこみどころが多かったので書き出しちゃいます!(おい!)

反戦とか原爆とか、示唆的なんだけど、ちょっと取って付けたような無理矢理感。

・UFOがいかにもUFOだよ!!みたいなデザインだったりの、全体的にチープな特撮(時代的にこれが限界なのかしら?)

・飛行機の操縦席に閉じ込められた松宮が叫んでいるのに、構わず朝倉を介抱する杉坂さん。そしてちょっといい雰囲気な二人w

・なんで飛行機のそばにガソリンがポリバケツにむき出しでいれてあるんだ?

・そもそも不時着した飛行機で待機してたほうが危なくない?爆発するかもよ?

・・・とか、きりないんですけどw

まぁ、そういうところには目を瞑れば(あ、こういうの探しながらでも(゜∀゜))、映画としては十分に楽しい。理論的に破綻してる映画は認めない!みたいな人には向いてないですが。

 

そして、エンディング。ゴケミドロから逃れて走る杉坂と朝倉。二人は高速道路に出てくるのですが、これが時代的なものか、まだ色々と建設途中な剥き出しの山とか、今とはずいぶん違った高速道路の外側の風景が見える作りになっています。料金所も時代なりのシンプルな作りで英語表記しか見えません。これがなんだか、私にはアメリカ映画に出てくる殺風景な田舎のようにも見えて、逃げた二人の迷い込んだ別世界に感じられて、更なる不安感を煽られたり。

 

グレーの地球の写る最後まで、色々こみで、全然子供向けじゃなかった「吸血鬼ゴケミドロ」。タランティーノが影響を受けた(キル・ビル作るときに「ゴケミドロに出てくる空の赤い色にしろ」とか言ったらしい)とPRされてますけど、まぁ、そんなことは全く関係なく(笑)今の技術でリメイクして作ったら、「フラッシュ・ゴードン」作りたくて「スターウォーズ」ができちゃったみたいに、十分今でも通用する作品なんじゃないかなぁ、と思いました。

 

で、輝雄さんご出演作品なので、今回も映画の本筋と関係ない備忘録(∀)

杉坂さんは終始パイロットの制服なので、正統派のハンサムさんぶりを発揮。

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正しくハンサムです。

 

朝倉くん役の佐藤友美さんもキレイで、このツーショットは◎です。

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朝倉くんの表情、杉坂さんのことが好きな様子。


1968年は石井輝男監督が異常性愛路線を撮りはじめた年。なので、この年からの輝雄さんのフィルモグラフィーは「続・決着(おとしまえ)」のめちゃめちゃかっこいい譲二さんを演じたあとは、変な状況に巻き込まれる常識人、みたいなポジションの役が多くなります(^◇^;) そんな中でもゴケミドロの杉坂さんは正統派なハンサムさんなのですが、どういうわけだか、石井作品における輝雄さんのかっこよさが別格で(笑)、杉坂さん見ながら輝男×輝雄コンビの化学反応というか、石井作品の世界における吉田輝雄の融和性の高さみたいなものを感じ、(たぶん、ハンサムタワーズで一番のf^-^;)デビューしたてで演技のできない新人を、敢えて選んだ石井監督の感度の良さに、あらためて感謝したりするのでありました。

番匠義彰監督「泣いて笑った花嫁」

美男美女と芸達者さんたちのいいバランス。

 

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【映画についての備忘録その53】

 番匠義彰監督×鰐淵晴子・倍賞千恵子吉田輝雄主演「泣いて笑った花嫁」(1962年)

 

浅草の玩具問屋の一人息子・杉山俊男(吉田輝雄)は、問屋の仕事とかけもちで歌劇団で演出助手をしている。父・常造(佐野周二)には内緒にしていたが、いよいよ演出家として独り立ちすることが決まり、常造に打ち明けることに。しかし、案の定、常造とは喧嘩となり、家を出ることに。俊男はひとまず劇場の楽屋で寝泊まりすることにし、劇団員でダンサーである早苗(倍賞千恵子)や問屋の番頭である文吉(桂小金治)が彼を心配して楽屋にやってくるのだった。

文吉が探してきたアパートに引っ越した俊男。その部屋の隣には美大生の岡本京子(鰐淵晴子)が住んでいて、彼女は偶然にも常造がアルバイトで雇ったばかりの学生だった。互いに顔をあわせ、挨拶をし、京子は舞台の初演出にむけて台本を書く俊男に、差し入れをしたりと親しくなっていく。

常造は、京子がかつて自分が奉公していた京都の老舗呉服問屋の孫娘であることに気づき、何かと京子を気にかけていた。京子の母である政代(高峰三枝子)とはかつて恋仲だったが、祖母のはつ(沢村貞子)に認めてもらえず、それぞれ別の相手と結婚したのである。

一方、俊男は舞台で早苗をソロに抜擢するつもりで台本を書きすすめている。自信がないという早苗を励まし、頑張ろうと言う俊男。早苗も俊男に想いを寄せていて、俊男の初演出の舞台に向けて練習に励むのだが、京子の存在に不安が募り・・・。

 

 

1961年に新東宝がなくなって松竹に移籍した輝雄さん。1962年は1月公開の「今年の恋」に始まって11本の映画にご出演されていて、1年の締めくくりの作品が12月公開の「泣いて笑った花嫁」。大忙しです!「求人旅行」の前に倒れて入院されていたようですので、それがなかったら月一本ペースですやん!26歳の輝雄さんがめちゃめちゃ頑張ってお仕事してくれたおかげで、今こうしてカッコイイ(つか、この年は美しいんだ(っ´ω`c))姿がフィルムに収められていて、そして、観る機会をいただけるという。ありがとうございます!

 

映画はかわいいタイトルバックから始まって。。。

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オープンカーや人形など、当時のおもちゃが次々出てきてめちゃかわいいのです♪

若く爽やかな美男美女の恋と(と、大人の男女のノスタルジーと)芸達者なコメディアンの方達の絶妙な按配で、結論は分かっているけど楽しめる安心の恋物語の展開と、次々押し寄せる笑いどころで、あっという間に終了。「花嫁シリーズ」ってシリーズものになっているようで、そして番匠監督は喜劇の得意な監督さんであったということで、なるほど!という感じ。「釣りバカ日誌」を作った松竹らしい、ほんとにいい人たちばかりの庶民的な、素直に楽しめる映画でした。

 

お笑い担当の役者陣は、もう、出てくると必ずなにか笑いをとっていく、そして、それが本筋の流れを邪魔していない、という素晴らしさ。“若旦那”の俊男を心配してあれこれ世話を焼く番頭さん・桂小金治さん、俊男の師である演出家の亀山・八波むと志さん(実は八波さんは今回初めて拝見したのですが、由利徹さんと同じ脱線トリオの方だったのですね)、呉服問屋の番頭さん・芦屋雁之助さん、高利貸しで政代に横恋慕する南都雄二さん、そして常造が京都で宿泊する旅館の番頭さん・藤山寛美さん、みなさん、普通のお芝居を担当する俳優陣(主演の3人や佐野周二さん、高峰三枝子さん)を巻き込みながら、心地良い笑いを提供してくれます。まじめなお芝居と笑いの部分が、ほんと上手く行ったり来たりしていて、違和感がないのですよね。

どう面白かったか、はネタばれになりますのでwここで詳しく書きませんが(∀)(一つだけ!東京ゴム糊とかいう会社名だけで何度も笑えるんですけど)こういう面白い映画が、ソフト化もされず、配信もかからず。。。旧作邦画に詳しい方なら有名なシリーズなのだと思いますが、一般的には寅さんのような知名度がないわけで…知られずにあるなんて、ほんと勿体ないなぁって思うのでした。

 

恋の物語のほうは、俊男を巡る三角関係・・・なのですが、そこは”明朗超特急”なんて惹句がついてるだけあるな、って展開。

京子はいまどき(!?)な感じで、おばあちゃんに借金で傾く呉服問屋の立て直しのために政略結婚させられそうになりつつも、自分の結婚相手くらい自分で探す!と言い切り、俊男のこともボーイフレンドとしてあっけらかんと周囲に話します。

早苗は倍賞さんが演じていることもあって、レビューのシーンが多く入れられていて、普段のところはあまり描かれていないのが残念なのですが、素直な下町っ子、という雰囲気。

俊男は、輝雄さんの素直そうな雰囲気が感じられるキャラクターで、京子のサンドイッチを頬張り、互いの部屋を行き来して、なんて設定なのに、なんというか天然な感じで嫌みがない(笑)ありがたく世話になります!みたいな男の子。

俊男×京子は隣の部屋で親密に行き来している感じがあるのに対し、俊男×早苗は劇場と劇団を介してのシーンが殆どで二人きりのシーンはあまりなくて、形勢はかなり早苗に不利な設定。でも、俊男がそんな感じなので、京子のアプローチもあんまり効果がなさそうで、三人の恋の行方はどうなるのかな!?と思いつつ、やっぱりどこか安心して観ていられるのでしたw

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早苗といるときは、大体他の誰かも一緒で(^-^;)(しかし、ほんと文句ないハンサムさんぶり٩(๑❛ᴗ❛๑)۶)

 

 

さて、輝雄さんご出演となるとやっぱり本筋と関係ないことも書きたくなるので、ちょっとだけw「今年の恋」に始まって、「泣いて笑った花嫁」で終わっている1962年。どちらもコメディなのですが、「今年の恋」に比べると、その後に撮っている作品だというのに、ちょっとコメディの演技に苦労しているように見えて、順調に上手くなってる訳じゃないというのが不思議。+゚(*ノ∀`)小津作品にも石井作品にも馴染んじゃう輝雄さんですが、このコメディにはなんとなく漂う存在の違和感があります(笑)ここまで色んな作品を拝見して、監督によって演技の質が違うような気がするのですが、これも監督の演出の違いなのかもw

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「今年の恋」に続き!?背が高くて頭ぶつけちゃうネタw

 


最後に一つ。映画の展開については不満がないわけでもなくてw佐野周二さんと高峰三枝子さんの大人の二人の恋物語にも、しっかりストーリーが用意されています。ただ、こっちにも時間が割かれている分、若い三人のお話の時間が足りない。だから、”花嫁”とかいうタイトルなのに、くっつくべき二人がくっつきそうでよかったなぁ!で、話は終わってしまって、ちょっと消化不良。だから、どのあたりが“花嫁”なのさ!?という感じなのでしたw